デザイン思考・限界論について思うこと
「デザイン思考には限界がある・欠陥がある」みたいなデザイン思考への批判的な声をよく耳にするようになり、その批判の声に賛同する人たち、いやいやそうじゃないでしょという人たちの間で議論が起こっている。僕自身はデザイン思考に対して特別な感情があるわけではないけれど、やたらと批判の対象になってる現状にはやや違和感を感じている。ただし、今回はできるだけニュートラルなスタンスに立つことを意識しつつ、なぜこんなすれ違いが生まれてしまったのかについて考えてみた。*できる限り中立的な視点で書いたつもりだけど前述のような立場であることを差し引いて読んでほしい。
1.デザイン思考の定義の広さが違う
多くの場合、デザイン思考を批判的に見る人は狭義に、受容的に見る人は広義に、デザイン思考を捉えているところがある。表面上のテクニックやフレームだけがシンボルのように取り上げられていることも定義の誤解につながっていると思う。「デザイン思考」という名前だけで議論するからややこしくて、中身やプロセスの話をすればどっちも割と一緒なんじゃないかという気もするし、そうした方が建設的・生産的な議論ができそうだ。改めて言葉ってなかなか正しく伝わらないし、誤解を生むなぁという実感と、表現して伝えようとする努力や他者を理解しようとする努力って大事だなと感じる。
2.親近感や愛着があるか
上記の定義の広さの要因にもなっているんだけれど、本人がデザイン思考に対する親近感や愛着を持っているかどうか、また自分のものであるという所有感を持っているかという点も大きそうだ。私の場合は、あるときにデザイン思考というものを知り、自分の暗黙的な感覚がうまく表現されているという実感があり、その後も比較的ポジティブにデザイン思考に馴染むことができた。一方でデザイン思考以前から、それに近い手法を自ら確立して実践してきた人たちにとっては、自分の考えてきたことややってきたことが極端に矮小化・単純化されたように見えてしまい、否定的な態度につながってしまうのかもしれない。
3.単なるカウンター戦略
デザイン思考への批判の中には、単にデザイン思考の揚げ足を取るだけの主張もよくある。この場合に多いのは、自分の論説の正しさを主張することを目的としたケース。彼らはデザイン思考を一方的に狭義に捉え、アンチの対象として置くことで、自らのポジションを分かりやすく表現するというカウンターの作戦を取る。チャレンジャー戦略のセオリーと言われればそれまでだし、偏った批判を受けるのも存在感が大きくなったものの宿命と言われれば、それもまたそれまでだと思うけど、なんだかなぁ・・・。
4.手法の問題と使い手の問題の混同
デザイン思考に限らず、基本的に手法はツールであり、中立であって善も悪もない。失敗事例の原因の多くは手法の欠陥ではなく使い手の問題で、ちゃんと機能するように使えばいいだけである。(「パワーポイントは使えない」とか「PDCAはもう古い」とか「ロジカルシンキングは終わった」といった話も同じ。)デザイン思考をうまく使いこなせないことへの追及が、なぜかデザイン思考そのものへ向いてしまっている。ただし、うまく使えていないケースが多いのは事実で、このあたりは運用における課題なのだと思う。実際、多くの人や組織がこの運用の課題に直面しており、すでに取り組みを始めている。
5.対象は最高レベルか、最低レベルか
これは自分自身は当初なかった視点で、言われて初めて気づいたのだけれど、何を対象として何を目指しているのかが、そもそも違っているケースもありそうだ。デザイン思考には、ごく普通の平凡な人でも創造的な活動を可能にしてくれるみたいな思想もあって、その意味では標準化によって最低レベルを担保し、平均を上げていくみたいなところがある。一方でデザイン思考の批判者の意見の中には、超クリエイティブ人間が超クリエイティブな創作活動をさらに高みに押し上げようという視点で話されているものも多い気がする。どちらも正しく価値があるのだけれど、このビジョンの差異がすれ違いの一因になっていそう。
この件について、いろんな方の話を聞いたり、記事を調べたりしているうちに、自分にはあまりなかった気づきもあって本当に良かった。そしていろんな方々の主張を知るうちに、副産物として批判や喧嘩のあり方についても学ぶことができた。自分自身は批判や喧嘩は苦手で、積極的に関わらないようにしてきたけど、美学を持って批判や喧嘩に向き合う姿勢もときには必要なのだと感じさせられた。
いずれにしても未来の社会やビジネスの世界にとって、有益な議論や対話がなされることが一番大切だし、ポジションの取り合いみたいな議論にはなってほしくないなぁと思う今日この頃である。