商店街とは(1) 商店街の総括・概要
私の商店街に対する総括
総括
商店街の問題は「組合」の問題です。これを理解していない人が多いです。
そして、商店街「組合」はかつての役割は完全に終えています。違う役割を持たせられないなら、解散すればいいと考えています。(現実的に有名無実化しているところがほとんどです。)
商業集積には価値があります。・・・が、商店街「組合」という仕組み自体がやはり難しいです。
そもそも商店主当事者が言うほど困っていないので、対応が難しいですし、支援自体も必要なのかというのは疑問があります。
関係者(ステークホルダー)
商業集積という意味で、最も影響・被害を受けるのは地権者ですが、日本の地権者はびっくりするほどに何にもしません。
森ビルのようにエリアマネジメントをしている地権者なんかはごくわずかです。チャリンチャリンと勝手にお金が入ってくるのが当たり前。非常に遠い場所に棲んでいて、自分の土地に行ったことがないという人だっています。
各自治体がまちづくりの一環として商店街支援という取り組みをしていますが、ほとんどの取り組みは見当違いです。
ハード支援はB/Sを大きくさせて、柔軟性を損なわせます。
ソフト支援と言われる一過性の賑わい作りは負担にしかなりません。
大体、まちづくりと商店街支援ということ自体が直接繋がっていません。補助をするのであれば、目的、目標、審査はしっかりすることが必要です。(基本的に予算ありきなので、仕方がありませんが・・・)
中心商業地の力が弱っていくと、住民にとっては生活の利便性は落ちてきますし、地域のイメージも落ちていきます。中長期的には固定資産税の減少に繋がるかもしれません。この状況を防ぐ上で、自治体が補助をする理由はあるのですが。
こういう環境の下で『商店街』というものが存在しているということを理解した上で、中小企業診断士としては支援することが必要になります。
お詫び
面白い話にならないと思いますし、自己満足的な話になると思います。
ただ、診断士として商店街に関与してきた中での総括はいつか総括しておきたいと思っていました。
12年目が始まるこのタイミングなので、3000字ぐらいで何度かに分けて、まとめてみます。
別に商店街の仕事、まちづくりの仕事を断るわけではありません。観光関係の仕事をやりたいので、まちづくりのお仕事はむしろお待ちしています。
ただ、時間的にも、日本・自治体の予算的にも商店街支援の仕事に関わることはほとんど無くなるだろうとは思っていますが・・・
(ちなみに昨年度の売上の内、商店街支援の割合は2%です。)
私と商店街との関り
仕事面
中小企業診断士として初めての仕事は先輩診断士からもらった商店街での通行量調査でした。
私が独立したのが2013年(平成25年)の4月だったのですが、平成25年補正予算で「商店街まちづくり事業(127億)」「地域商店街活性化事業(53億)」というものがありました。
ハード更新とソフト更新を国が補助するというもので、独立当初で暇だったのもあり、補助金の取得支援や事務対応のフォローなどで関与させてもらいました。
それから、商店街の仕事をする診断士がほぼいなかったので、色々と声を掛けて頂いたこともあって、延べ数で100か所(ほぼ大阪)程度関与させて頂きました。
生活面
生まれ育ったところは大阪なのですが、店が全くない「ポツンと1マンション」と「中学校」といってもいいぐらいの場所で育ちました。(今はマンションだらけですけど)
もよりの商店街まで3kmぐらいある場所で、お祭りのときに行ったことがあるぐらいで、全然、商店街を知らずに育っています。
そのため、一番にぎわっていた時期というのはリアルでは知らなかったりします。
商店街関係の有名な人
現在において商店街関係で一番有名な人は「木下斉」氏なんでしょうね。本人のnoteのアドレスも「shoutengai」ですし。
私は年齢もそう変わらないので、言っていることはよくわかります。現場にいると同じ感覚は結構ありますし。
ちょっと前だと教授ですが、「石原武政」氏なんだと思います。政府の商店街関係のワーキンググループ(研究会)にはよく参加されています。「大店立地法」などの法律が作られた時代から活躍されています。
自分も大学でちょっと教わったり、診断士の仕事を開始してからも関りはいくらかあります。
そもそも商店街とは
商店街は儲けるための場所
商店街というのは基本的には儲けるための場所として、自然発生的にできているのがほとんどです。
人が集まるところだと、モノを買ってくれるだろうということで、商業者が集まってくるというのが流れになります。代表例は下の3つですね。
駅前
神社・お寺の前
工場付近
そして、商業者があつまることで魅力が高まっていき、さらに人が集まるという流れになっていきます。
歴史的な商店街
歴史的には三斎市、六斎市などと呼ばれる形で、定期的に商業者が集まる市場ができるというのが始まりになります。
江戸時代には大阪にも天満青物市場などもできて、常設の商店街になっていきます。
明治、大正、昭和と進んでいく中で鉄道駅や大規模な工場ができることで、各地に商店街ができていきます。
戦後は団塊の世代を含めた人口増加もあり、高度経済成長で経済活動が活発化して、消費も大きくなって、昭和30年~昭和60年頃にかけての商店街の黄金期がやってきます。
組合の設立から現在まで
伊勢湾台風を契機に昭和37年に「商店街振興組合法」が成立され、各地に商店街組合が設置されていきます。
任意団体から法人組織となっていく中で、結束する下地ができていきます。その環境下で、商店街は人が集まる場所として、政治家から選挙協力が求められる一方で、組合を通じて多額の補助金が交付されるという流れができていきます。
商店主たちは戦後から間もないということもあり、年齢も若く、資産もほとんどなく、エネルギーに溢れた、一発逆転を狙うような人が集まります。置かれている環境も近く、結束が生まれやすい環境でもありました。
商店主たちは環境の良さもあり、非常に儲かって、従業員を多数使っていくことで、経営も余裕が出てきます。息子・娘に教育を与えていく人もいれば、不動産を購入して本業以外の所得を増加させる人、時間の余裕で組合活動を増やしていく人もいました。
組合活動として、祭りなどの販促イベント、講師などを呼んでの集合研修、組合メンバーと行く団体旅行、環境整備としてのアーケードや駐車場設置なども多数実施されました。
また、商店街の店舗の中から、GMS企業(イオン、イトーヨーカドー、ダイエー)なども出てきます。大阪の商店街で話をすると「ニチイ」なんかもいまだに話には出てきます。
時代が進むにつれて、冷蔵庫、モータリゼーション、男女雇用機会均等法などもあり、専業主婦から就職する流れになり、家庭の形が変わると共に、買い物の場所が商店街からスーパー、GMS、街道沿いの大型専門店、ショッピングモールへと変化していきます。
商店街の店舗は儲からなくなり、勉強した子供も継がなくなります。商店主も従業員を雇う余裕がなくなり、時間も無くなって、年齢も高齢になっていくことで、店舗営業を辞め、組合活動はどんどん減少していきます。
空き店舗や老朽化したアーケードが残っていても、自分が損をすることはしたくないため、放置された状態になります。
地域の魅力が落ちてしまうので、周辺住民や自治体は問題だと言いますが、元商店主たちは困らないので対応しませんから、何ともなりません。
組合も個人に対しては何の力もありません。もちろん、組合・地域のために何千万円ものお金を自分がすべて負担するという奇特な人はいるわけもなく・・・
自治体は商店街に新規出店者を集めるように各種の施策をしています。商店街に新しくお店を出す新規出店者はやる気もあり、儲けたい人達です。ただ、組合の理事クラス(過去から営業している人)はすでに多額の資産を保有しており、商売は惰性でやっている方も多いです。
若い人も古参の人もお互いに自分にとっては正しいのですが、環境も考えも違っているため、話は全然合いません。組合は若くて体力がある新規出店者に各種の負担を求めようとしますが、若い人にとっては自分の売上の方が大事ですし、組合のメリットは感じにくいです。
結果、組合に入っても仕方がないということで組合から離れていきます。そういう若い人を組合活動に参加しない、協力的でないという形で、苦々しく見るので、余計に参加者・協力者が集まらないという状態になります。
商店街自体に人が集まらなくなり、政治・政策の透明化も進むことで、商店街に対する補助も大幅に減額され、補助金を受けるための箱としての存在価値も無くなってきています。
上記の経緯によって、全く身動きが取れない状態になっているのが、現在の商店街の状態です。
まとめ
結構すぐに長文になってしまいますね。商店街の今後や自分の支援方法なんかは次以降の投稿で書こうと思います。