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タイプロに学ぶ、田舎暮らしを豊かにするコミュニケーション術【エピソード15】

アイドルグループ、timeleszの新メンバーオーディション番組「timelesz project」(以下タイプロ)が面白い。

普段、田舎暮らしの話ばかりなのに、一体どういう風の吹き回しか。自分も書き出してみて、これをどう田舎暮らしにつなげていくか見当がついてないが、いや、つなげてみせよう。以下一応ネタバレ注意とする。

2025年1月現在、審査も大詰めとなってきて、候補生に要求されるレベルも上がってきている。自分も「音楽で自分を表現する」ということに携わってきた者のはしくれとして、最前線のアイドルたちがどのようなマインドを持って表現に臨んでいるのかを見るのは、とても興味深い。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間7分)。

アイドルがアイドルである秘訣

最近の【エピソード15】では、松島聡くん率いるチームで、「カワイイ」の表現と「アクティング」への対応が課題となっていた。

配信の中で、候補生の寺西くんはさすが舞台経験豊富なだけあって、一番カワイイのイメージが湧かないと言われていたのに、パッとすぐ自分の「カワイイ」を引き出すことができていた。

しかし練習日にメンバーが揃わないこともあってか、寺西くんの中にある「カワイイ」がどこから引き出されてきたものかが、他のメンバーに伝わる機会がなかったように見える。
一生懸命練習しているのはわかるが、振付ができる、とか、ただ口角を上げる、とかでは、それぞれのカワイイが引き出せてないことは明白だった。

苦心した末に、「公園で遊んでる感じ」を起点に具体的なイメージを意見を出し合い、「カワイイ」のイメージをそれぞれが膨らませたことで、みんなが「同じ空間にいる」ように見え始めた。

パフォーマンス中の「アクティング」は一見何気ないものに見える。しかし、実際にはそのシーンの設定からメンバーの役割まで、緻密なイメージを作り共有することで、観る人をひきつける表現になる、という。

最後の審査のパフォーマンスが各段に「カワイイ」であふれて見えたのは、多くの視聴者も同意してくれるだろう。

まさに、アイドルが「セクシー」から「かわいい」まで、変幻自在に操れるからこそすごい、という言葉にはこのような緻密な技術が裏付けとしてあるからに違いない。

演劇ワークショップ体験:コミュニケーションの難しさと奥深さ

このアクティングのシーンを観ながら思い出したのは、恵那市が開催している「演劇ワークショップ」に参加した時のことである。

このワークショップは、映像や舞台の一線で活躍する一流俳優を指導するトレーナーを招き、近年注目される演劇の教育的効果として、コミュニケーションにおける共感性や、自己表現力の向上を目的としたプログラムである。

2回のワークショップを通して、いかに自分のコミュニケーションの仕方が「粗雑」であったかを思い知らされる、驚きの体験ばかりであった。

多くのワークでフォーカスされた、「言葉を届ける、受け取る、共有する、違いを認める」など、基本的なことのように思われるコミュニケーションについて深く掘り下げていったのだが、これが実に難しい。
自分でできているつもりが実は全くできていなくて、コミュニケーションもスキルであり、意識して積み重ねることで身に着けていくものだと理解した。

ぜひ多くの人にこの体験をしてもらいたく、おススメしている。

背景の共有:そのバス停は、みんなも同じバス停か

さて、このワークショップの中で焦点をあてられたのは、まさにこの演技をする際の「背景の共有」であった。

例えば、台本に「バス停の時刻表を見る」と書かれていたとする。

これだけであれば、自然と自分が普段から「当たり前」に見ているバス停を思い浮かべながら演技を始めてしまう。しかし、同じ舞台で演技をしている他の演者にとっては、それは同じだろうか。

実際自分の最寄りのバス停は、一日に4本ぐらいしか通らない。かたやペアになった人は10分間隔でバスが来るような市街地に住んでいる場合、演技として成立するだろうか?

もちろん実際のドラマなどの台本には、設定が事細かく指定されていることだろう。

しかし、どんな場所にあるのか、一時間に何本バスが来るのか、いつも乗るバスなのか、台本に書いてなくても、書いていない部分にこそ、演技者が共通の「空間」や「時間」にいることで、説得力のある演技が生まれる、ということだ。

実際に自分もペアになってチャレンジしたが、1回目の演技と、背景を話し合って解像度を高め合った2回目とでは、演技上の会話なのに、実際に設定したシーンにいるかのような感覚になって、これが演技か、と驚いた。

これは舞台の設定だけの話ではない。自分たちは普段、何気なく使っている言葉の意味を深く考えずに使っている。それは、まるで生まれる前から当たり前にあったかのように思えた「バス停」のようなものだ。
しかしその意味は地域や家庭環境、所属するコミュニティ、時代によって大きく変化する。

さらに、定義の曖昧な「カワイイ」とか、「暮らし」とか「自由」とか「成功」といった抽象的な概念になればなるほど、思い浮かべるものは人それぞれ。自分たちは言葉の意味を共有しているようで、実は異なる意味で捉えていることが多々ある。

つまり、人は相手がどのような意味でその言葉を使っているのか、その背景まで共有しているとは限らず、同じ言葉を話しているようで、理解し合えない、ということが容易に起こる。

コミュニケーションの中で、なんかおかしいな、と思ったら、まずお互いに言葉の意味を確かめあうことで、その齟齬が解消できることもある。「どっちが合ってる」ではなくて、「違うんだ」と、わかることがスタートなのだ。

田舎暮らしと感覚のズレ

これは夫婦関係などあらゆるコミュニケーションの中で起きることだが、自分は都市部から農村部へ移住したときに、強く感じたことであった。

農村部では、都市部ほどに選択肢が豊富にあるわけではない。スーパーマーケットや学校、働き方、など多くの住民が同じようなものを選ばざるを得ない。あるいは、共同作業の多かった時代の名残で、祭礼など集落全体での習慣的な集まりも多く、その様式が大きく変わることはない。
このような状況から生まれる価値観や生活習慣は、全体的な志向を帯びており、コミュニティ意識の希薄な都市部から入ってきた移住者たちは、そのギャップに驚く。

バス停ぐらいなら田舎での生活を続けていれば嫌でもわかるが、こうした「ズレ」がより抽象的な言葉の中で顕在化してくると、会話が噛み合わないばかりか、すれ違いや誤解が生まれることがある。

もちろん、人にはそれぞれの習慣や考え方もある。「個」を捨てて、全てを田舎に合わせれば良い、という話でもない。
しかし、特に「移住」してきたともなれば、「地域」という場を共有して暮らしている、という前提がないままに、ただただ「価値観が違う」と消耗して孤立し、地域を離れていく人も多く見てきた。

より良い関係のためにできること

地域おこし協力隊などでよく見られがちな「都会では~」という提案が地域で疎まれることがある。本人としては課題解決のための前向きの提案であっても、「地域」とか「地域のため」が指すものをお互いに共有できていないからだ。

もちろん受け入れる側もまた、新しく来た人の背景を丁寧に知る、ということが必要で、お互いにそれはものすごくコストが高くつく(つまり面倒くさい)のだが、どちらにもその覚悟が必要だともいえる。

自分もまた協力隊の経験や、その後の一住民としての暮らしの中で、相手を見てないコミュニケーションをして失敗を繰り返し苦しい思いもした。
なぜわかってくれない、という想いが頭をもたげる一方、繰り返しているということは、自分が相手をわかってないということだとも悟った。
そこからは地域を知ろう、この地域がどのように成り立ってきたのか、ここにはどんな人たちがいるのか、そのような意識を向け、地域活動にも参加してきた。
同時に、自分と地域の「何が違うのか」を社会や文化の文脈から客観的に捉え、自己開示する発信をしていたら、自分を一人の個性として見てコミュニケーションをとってくれる人が増えて、地域のいろんな場面で声もかけてもらえるようになった。

これは演劇ワークショップの中でも触れられていたことだ。
演技という、一人ひとりが全体を構成するために、協力しあう場において、「それはオレらしくない」とか、「自分らしさ」みたいなことにこだわり過ぎると、結局舞台として成立できない状況を生む。

しかし、背景を共有したり、言葉の意味を一致させたりする過程の中で、学校は家の車で送り迎えするのが全国の当たり前ではないと知るとか、スーパーマーケットは「バロー」だけではない、いやむしろ関東では知らない人が多いとか、そういう違いをお互いむしろオープンにすることで、自分のいる世界以外のことや、その世界に暮す人々のことが想像できるようになる(そういうゲームもワークショップで体験した)。

その結果、今のシチュエーションだったらこっちだよね、とその必然性を理解したうえで、全体で協力する動きが生まれる一方、良いところをより合わせた新しいアイディアを創造する可能性が高くなり、それぞれの個性を活かした役割が生まれたり、舞台としての完成度が高くなるのだ、と。つまり、違うからこそ、面白い、と。

これは田舎暮らしをより充実したものにするためのマインドと共通していると感じた。

移住定住に関する施策や、地域コミュニティの課題解決には、このような相互理解を深めるための対話の場が不可欠であるが、何なら会議に演劇ワークショップを取り入れてみれば、驚きの効果をもたらすかもしれない、と本気で考えている。

タイプロから見る、違いを乗り越えて得る成長

話はタイプロに戻る。

Matsushimaチームには、アメリカから参加した乃我(のあ)くんという高校生がいる。日本語は話せるものの、指摘やアドバイスを受けても、日本特有のハイコンテクストなコミュニケーションの中から、相手の伝えたい真意をくみ取らなければいけなくて、結局どうすればいいのかわからない、と自信を無くしている様子がうかがえた。文化的な違いからの「当たり前」がズレてしまう辛さも、自分は移住者として理解できる。

しかし彼がチームメンバーに「言っていることがわからない」ということを涙ながらに打ち明けたときに、何かが変わった。彼が抱えている「違い」が共有された瞬間だった。これには乃我くんの苦しみを察知し、言語化に導いた寺西くんの存在が大きい。

寺西くんが架け橋となってチームが乃我くんの違いを受け入れ、彼の存在を尊重し、安心してパフォーマンスできる環境を作ってあげた結果、乃我くん自身が成長し、個性を発揮しながら、チームの一員として世界観に調和したパフォーマンスを見せてくれた。

結局のところ、アクティングの課題は、単なる技術の問題ではなかった。彼ら自身がお互いを理解し合い、違いを受け入れることで、人として成長し、かけがえのないつながりが生まれる、ということこそが価値なのだと、彼らの姿が物語っている。

その過程には、乃我くんが見せたような痛みも伴う。自分のニーズを隠しながらなんとなくやり過ごす選択肢もあったかもしれないが、そこから生まれたパフォーマンスでは人の心を動かすものにはならなかっただろう。

開示することが生む持続可能な未来

田舎暮らしもまた同じだ。違和感を「まあそんなもんだろう」とやり過ごしながら、穏やかに暮らすこともできる。
しかし、実際問題、人が少なくなっていく一方の過疎地において、自分たちの地域の未来を思い浮かべたときに、地元の人も移住者も「当事者」として共に地域の一員として行動することは欠かせない。

その未来の姿を高い解像度で共有する場があれば、その過程に深いコミュニケーションが生まれる。
昨年春に開催した、『地域に可能性を感じ、何かをやりたい、と思っている人たちと出会うための「木陰のピッチ大会」』では、地域の内外が入り混じって、それぞれの思い描く未来像を語り、今までにないアイディアを聞いたことで、前向けなコミュニケーションが生まれていた。

わかってもらえないんじゃないか、自分だけが違うんじゃないか、と不安になる場で、自分を開示していくことは、とても勇気のいることでもある。しかし、その姿はオーディエンスの心に響いているはずである。

それこそアイドル達がステージで輝いている裏側では切磋琢磨して互いに高め合っているように、自分たちも田舎というステージの上で、違いを認め、協力し合って、一人ひとりがクリエイティブになりながら、持続可能な未来へつながるパフォーマンスを繰り広げるべき時代なんだと思う。

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