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田んぼは語り場 〜持続可能性というは楽しむことと見つけたり~

今年のコメ作りは、仲間を募って「米部」なる活動を始めている。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間3分)。

「米部」始まる

米部は同じ恵那市笠置町で、古民家の古本屋として知られる「 庭文庫」のみきちゃんからの提案で、庭文庫に集まる人たちと一緒に米づくりにかかわってもらい、無事収穫できたら最後は「コメパ」をして祝おう、という企画。

うちでのコメ作りは4年前に始めたが、昨年はいったんお休みしている。一応農薬は使わずに育てているので、毎年イネ以外の草に悩まされ、仕事や子供たちを見ながらオレと妻の二人で除草に時間と体力を使うには限界があったことが、一年休んだ理由でもあり、再開するにあたって人手の確保が大きな課題だった。

方々で農業コミュニティが立ち上がり、いろんな人たちが参加しているのを、いいなぁと指をくわえて眺めつつ、自分に人を集める力がなくあきらめていたので、庭文庫として拡げてくれたおかげで実現できたのは言うまでもない。

さっそく田植えから手伝ってもらったが、その後もそれぞれ都合のいいときに来てもらって草を抑える作業を継続的にやっている。
気温が上がってきて、いよいよ雑草の勢いを増している中、みんなの力で今のところなんとかなっている。一昨年はもう今時点でほぼあきらめてた…

どれがイネでしょう

田んぼが育むつながりの質感

草取りは足を土に取られながら田車を押したり、腰をかがめて抜いていく。身体は痛いし、暑いし、果てが無い。

こんな作業を、一人でやっていると必死さばかりが募って心が折れそうになるものだが、仲間と一緒、というだけでとても心を軽くしてくれる。

嬉々として草を抜く

最初はこんな作業させて申し訳ない、なんて気持ちになってた。しかし、参加してくれたメンバーたちは「楽しい!」と言ってくれる。

なめらかな土の感触、陽に温められた水の温度、草を抜く時の力加減、身体が味わっているいろんな感覚を、みんな口々に伝えてくれる。

お互いの距離感が近づくからか、口も軽くなり、自分の人生語りから社会課題の解決策まで、普段にない会話が繰り広げられる。

と思えば、作業に集中して、黙々と草と向き合う時間が訪れる。草取りはマインドフルネス、と言った人もいる。

作業が終わったあとに「けっこうできたね!」などと田んぼを眺めながら言葉を交わすときに、何かつながったと感じられる。

こんな機会作ってくれてありがとう、と感謝までされる。感謝すべきはこちらなのに。

昔も今も、人は楽しくやりたい

近年まで日本のコメ作りは、集落の共同作業として全員が関わり、毎日田んぼの管理をしてきたという。
機械もない時代なので手作業による他なく、一説には除草に1反あたり約35時間の労働が必要とされていた、との記述もある(1反約990㎡、300坪)。うちは1.5反以上あるので、50時間以上か…

草抜きは主に女性の仕事だったらしいが、この時、草を抜きながら猥談をペチャクチャおしゃべりしていた、という、宮本常一とかで有名な話もあり、この過酷な労働に楽しさを見出していて、乗り切っていたことがわかる。

機械化や農薬類の普及による個別化やほとんどの農家が兼業化した現代において、楽にはなったが、そんな楽しみ方は減ったに違いない。

どちらがいいという話ではない。機械化などがもららした恩恵は計り知れない。

しかし高齢化やライフスタイルの変化から結局は、田んぼは大変だ、が先に立ってしまえばコメなど買った方が安いとなりかねず、そのようなことで田んぼを手放す人も近所に増えてきた。いわゆる耕作放棄地も増えている。

その光景を目の当たりにしながら、個別の事情や社会の変化を思えば、致し方なし、という複雑な思いもあった。

そんな矢先のコロナ禍。いつ地域が閉ざされても生きながらえられるように食糧を自給しなくてはならないという危機感に襲われて始めたのだった。

しかし、切迫した危機感でやっている間は一人でも力を出せるものだが、ましてや農薬を使わずコメを作るということは、過去に村人総勢で行っていた作業を1家族ないしは1人で取り掛かることに相違ない。状況が落ち着いてくると、危機感や義務感だけでは気持ちが苦しいだけに陥ってしまう。

そのようにやっていると、持続可能な社会とは単にシステムを構築すればよい、という話でないことに嫌でも気が付かされる。それを担うのは感情を持った人間であるわけだから。

なぜ稲作に祭りが欠かせないのかもわかる気がする。

持続可能性というは楽しむことと見つけたり。

つながりをつくって、大変だけど楽しく、美味い!を分かち合う幸せから、コメ作りを続けていく人が増えていったらと願うばかりだ。

不安を受け入れてくれる大きな器として

逆の方から見れば、米部のように農作業を体験したい、という人も増えている。様々な社会背景があるとは思うが、先行きが見えずに誰もが不安を抱えるこの時代、土に触れることは何か「安心」を感じる行動なのかもしれない。

米部に参加された人も、こんな大変な作業にもかかわらず「癒された」と言って、どこかホッとしたような表情になる。

農作業を手放しで礼賛するわけでないが、五感に自然が働きかけるその作用は、「楽しさ」の要素が加わることで、より他者や自分自身へのつながり感と希望をブーストさせていく感じがする。

できる範囲で関わってくれることで、お互いの持続性が高まり合う、それがこの先の社会の当たり前であってほしいと願っている。


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