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人生に行き詰まりそうだった30代のころに農村に移住するに至った経緯

世の中リモートワークに端を発する2地域居住や地方移住への機運が高まっているという。

コロナ禍が地方移住への意識を変えたことは、統計でも明らかになっています。緊急事態宣言が全面解除された2020年5月25日から6月5日までの間、内閣府が1万人を対象に調査を実施。その結果、リモートワーク経験者のうち24.6%、つまりおよそ4人に1人が地方移住への関心が高くなったことがわかりました。さらに、リモートワーク経験者の64.2%、およそ3人に2人は「仕事より生活を優先させたい」と答えています。一方、リモートワークや時差出勤をしていない人の関心は34.4%とはるかに薄い結果となりました。
また、若い世代でも地方移住の関心は高まっていることも、この調査で明らかになりました。特に東京23区在住の20代では35.4%という高い数値に。
やはり、コロナ禍をきっかけにして働き方、暮らし方への意識が変化したと言ってよさそうです。その背景には、ネット環境やアプリなどインフラが整ったこと、出社を最優先にしなくなった企業の考えの変化があるでしょう。

今移住を考えている人たちは、地方暮らしについての情報を微に入り細に入り集めていることだろう。

そんな人たちが移住について考えるための何か手がかりになればという思いもあって自分の経験から得た考察をnoteに書いている。
田舎に移住するということは、都市部に比べていやでもその地域社会の一員として社会参加を迫られる。
ただただ自然さえあればいいということでなく、田舎に住むということが、本人にとってもその地域にとっても、気づきと学びを深めあえるような関係であってほしいと思っている。

いや実際に移住するかどうかは問題でない。都市部に住む人ともこの経験を分かち合うことで、お互いの価値観の橋渡しをしたい、という思いもある。お互いにお互いを必要ないと切り捨てあうことほど、持続とか調和というものから離れてしまう。
お互いに自分たちの暮らしを支えているものが、どこをどのように巡ってきたものなのか、そのことに少しでも思いをめぐらせてもらうことができたらと思っている。

今回はオレ自身が移住に至った経緯、というものをご紹介したい。自己紹介でも書いてはいるが、移住に興味はあるが自分が田舎で暮らせるかわからない、というような人や、ただ移住する人の気持ちが知りたい、あるいは移住してきた人のことがよくわからない、というような人に向けて、もう少し詳しく書いてみる。
オレの経験の中にも何かしらご自身と結び付けて考えられるものもあるだろう。お役に立てれば幸いだ。

生い立ち 

神奈川県横須賀市で生まれ育つ。ちなみに4人兄弟の次男。上に4つ離れた兄、下に2つ離れた双子の妹がいる。
家のあった新興住宅地はオレが生まれる少し前にできたばかり。1977年は出生数の最後のピークを越え、減少に至る坂を転がり始めた最初の時期。とはいえ、近所に同級生もたくさんいたし、小学校の児童数は1000人を超え、1クラス40人×5クラスはあった。

見渡す限りは家ばかりの環境ではあったが、住宅地造成のために切り崩した小山に、まだ少し山らしいところは残ってたので、それなりに山に親しんだ記憶はある。

教育熱心な親のおかげで、小学校中盤以降は塾通いが始まる。たいして気乗りなわけでもなかったが、同級生にも中学受験する友達がたくさんいたので違和感もなく、なんとなく受験、神奈川ではそこそこ名の知れた横浜の私立中高一貫校に入学。毎日地獄の満員電車にもみくちゃになりながら登校するのだった。

そうして親の期待通り(第3志望だったのでがっかり?)一流大学→大企業or官僚への道を歩み始めるかと思いきや・・・

ドラムと出会う

うちは親が音楽好きということもなく、オレも中学の部活は野球部でも入ろうかと思ってたが、運命を変える出会いがすぐにあった。

当時妹がピアノを習っていて、その先生のコンサートがあるというので付き添いで行くことに。そしたらたまたま同日に同じ会場の大ホールで、自分の中高の吹奏楽部の定期演奏会も開催している。そこでオレは吹奏楽部の演奏を聴くことにして、大ホールの扉を開けたその瞬間。

今まで聞いたことのない音がまさに身体に突き刺さってくる。なんだこれは。当時はよくわからなかったが、その時はビッグバンドスタイルのコーナーでスイングジャズを演奏していた。
ステージに目をやると、たくさんの太鼓とシンバルに囲まれて、縦横無尽にスティックを躍らせているひと際目立つ人がいるではないか。

これだ、これをオレはやらなければならない。ドラマー佐藤が誕生した瞬間である。

その時ドラムをたたいてた先輩は当時高校3年(中高一貫なので部活は一緒に活動する)、実はその後この一帯では名の知れた重鎮ドラマーとして、数々の有名ドラマーを門下生として従えることになる。
当時からして高校生とは思えない熟練した演奏をしていたものである。

彼のドラムを聞いたのでなければ、ここまで心を動かされただろうか。その点でオレは本当にこれ以上ない出会いをした。

翌日さっそく吹奏楽に入部。ドラムにのめりこんでいく一方、成績は下降の一途をたどるのだった。

大学進学~音楽活動

そんなわけで、大した勉強もすることなく、エスカレーターで高校進学、授業のレベルが高すぎてますますドロップアウト気味だったが、門前の小僧ばりになんとなく都内中堅の私立大学に現役で入学。

もうそのころには音楽で食べていく、という目標があったので、大学でもジャズ研究会に入り浸り、ドラム1打ごとに単位を燃やしていくのだった。

その後は5年かけて大学を卒業。まともな就職活動もせず、音楽活動へまっしぐら。少しの間音楽学校にも通った。
どちらかというとスタジオミュージシャンを志向していたのだが、まずはバンドで名を上げようと考え、いろいろなバンドに所属した。インディーズから数枚アルバムが出てたりもする。

(一番売れたのが↓。まだ売ってた。レビューの内容は絶賛なのに☆☆☆とはこれいかに。)

ここまで見た通り、親がかけてくれたオレへの投資に全く見合ってない生き方をしている。早く就職しろと日々迫られながらも、それでも家を放り出されなかったことには親に感謝しなければいけない。
親にしてみればここで諦めたら自分たちのやり方を自分で否定することになるという思いがあったかもしれない。それは自分が親になってわかる気がする。
しかし、今振り返れば帰れる場所があるがゆえの「そのうちなんとかなる」という気分が自分の成長を妨げていたのだろう。

転機

案の定、行き詰まりが見えてきた。

ミュージシャンとして評価をしてくれる業界の人もそれなりにいた。
けどどのバンドも途中で人間関係でうまくいかなくなって離脱、業界とのつながりを作っても太くする方法がわからない。

そして圧倒的な練習不足。音楽だけで生計が立たないので、フリーターとしていろんなバイトを転々とした。それを練習不足の言い訳にもした。

自分の行きたい目的地に向かって、今自分はどんな状態なのか、どのようなルートがあって、どんな準備が必要なのか、日々を何をしていけばいいのか。

のちにマネジメントの考え方を知るも後の祭り。

うまくいかなくなった理由は山ほどある。

いつの間にか、横浜ローカルの小さなジャズクラブに入り浸るようになり、ジャズドラマーとしての活動ばかりになった。もちろんジャズは大好きな音楽だが、当初の目標からはだいぶ道がそれた。

ジャズはより自分自身を表現できる音楽だから、みたいな言い訳をしていた気がする。

仮にも自分が中学生のころから思い描いていた未来が遠くに離れ始めたと感じてきたこのころからやっと、自分の生き方とか、社会とか、そんなものの意識が芽生えてきた。

そうしてやっと自然が顔を見せ始める。

山との出会い ~当たり前を疑う~

山との出会いがオレにどんなものをもたらしたのかはすでに書いた。

そもそもは、ドラマー仲間で富士山頂でドラムを叩こう、という無謀な企画だった。

オレも含めてほとんど登山経験者もなく、小型の改造ドラムキットを手分けして背負い、9月の人気がまばらになった富士山に日帰りで登ったのだった。

苦労して登ったわりにはガスで始終何も見えず、山頂でみんな喜々としてドラムを叩いてた横で、オレは高山病に苦しみ保温シートにくるまって動けなかったという、アホな体験だった。

しかしそれでも何かを感じたのか、それとも1回はまともに登りたいと思ったのか、翌年の再挑戦以降、8年連続で登るようになっていた。

音楽で生計を立てるという目標から遠ざかる一方、登山に夢中になりはじめていたのだ。

冬期登山こそ数少ないが、近場の丹沢を根城に、南北アルプス、奥秩父、奥多摩あたりをうろついていた。単独行でのテント泊が好きだった。

その時期と前後して、趣味と実益を兼ねようと、アウトドアブランドのショップにバイトで勤めることにした。

イタリア ~ローカル意識の芽生え~

正直音楽活動は風前の灯ともなっていたが、それでも何とか状況を打破したいという思いはあった。

そこでネットでたまたま見つけた、イタリアでのサマージャズセミナーに参加した。

イタリアとはちょっとした縁がある。父の仕事でオレの生まれる数週間前までローマに2年間家族で駐在していた。以来我が家はイタリアびいき。妹はイタリアに料理留学に行ったまま、地元のイタリア人と結婚。

イタリアに親しみを感じていることに加え、ジャズを勉強するなら普通アメリカに行くのだけど、イタリアに行く日本人は全国探してもそうはいないだろう、という独自性を打ち立てたいという目論見もあった。

シエナでの2週間のセミナーと前後合わせて3か月イタリアに滞在した。

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セミナーはいろいろ波乱万丈で辛くもあり楽しくもあったのだが、イタリア中から集まってきた老若男女と話せる機会があったのが、なにより貴重な経験となった。

みんな口をそろえて、「オレんとこの海や山や自然は世界で一番美しいんだ!」「いやオレんとこの町の暮らしが世界で一番だ!」と地元のことを躊躇なく讃える。

あまり日本では聞かれない話にとても驚いた。日本では、「いやうちの町なんて何もなくて」「ほんと大したことない」と謙遜するのが当たり前という印象だったから。地元をほめるなんて人にあまり出会ったことがなかった。

かくいうオレも地元である横須賀について、何一つ良いことを言った覚えがなかった。何もない、さびれてる、海は汚い、山は荒れてる。そんなことばかり言ってた気がした。

オレはイタリアの人たちと話して、そんな自分がなんだかとても哀れに思えた。イタリアは南北格差が激しく、行政の対応などもいろいろ問題が多いと聞く。ナポリなんてその代表格だけど、そのナポリ人たちも行政への不満は漏らすものの、それでもナポリという街の世界一の座は彼らの中で揺るがないのである。

ローマの人もフィレンツェの人も、シチリア、ベネツィア、どこかの村の人もセミナーが終わり別れ際に、「うちの町へ来なよ、世界で一番いいところだから!」と言ってくれた。

オレはこんなに胸張って、横須賀においでよ!と言えるのか。自分がある場所に暮らすということはどういうことなのか。そういう自問が始まった瞬間でもあった。

ちなみにこのセミナーでは90%はイタリア、そのほかドイツ、スイス、フランス、ギリシャなどからの参加者の中で、唯一の日本人、というか唯一のアジアからの参加者であった。

そしてセミナーの最後を飾るグランドフィナーレコンサートのドラマーとして選ばれ、シエナの歴史ある街並みに作られたステージで演奏するという名誉に預かれた。

そんなイタリアでの体験のあと、内なる殻を破り音楽活動に邁進、することなく、関心はより内向きへ向かっていく。オレは音楽のことをどう思ってんだ?生計を立てるために音楽やってんのか?
セミナーで出会ったやつに言われた「なんか君は音楽と闘ってる感じがする。僕は音楽と友達だから楽しいとしか思わないよ」という言葉が忘れられない。

もっと音楽を自分の豊かな営みにしたい、もっと暮らしを一番に考えたい、という思いが沸き上がりながら、それでもまだ音楽を生活の糧にする、という思いから抜け出しきれないまま、時間が過ぎた。

ニューヨーク ~ジャズ三昧から見えたこと~

その2年後、ニューヨークの友達をたよりに少しの間ステイして、当時から話題を集めていたジャズドラマー、Ari Hoenigと、ニューヨーク在住の日本人ドラマーとして数々のレジェンドたちと共演している田井中福士さんにそれぞれ数回ずつレッスンをしてもらった。

毎夜毎夜ジャズクラブをはしごしたニューヨークで目にしたものは、有名無名かかわらず凄腕のミュージシャンたちがしのぎを削り、日夜音楽に没頭している姿。そりゃ登山なんかしながら彼らと肩を並べられるわけがない。

Ari Hoenigには、彼の得意とするポリリズムについて学ぼうと思っていったのだが、最初にオレのドラムを聞いて一言。
「うん、君にはまず基礎が必要だ」
ひたすら手足の出音を完全に一致させる、という練習をしたのだった(最後の方でポリリズムについても触りを教えてくれたけど)。

滞在中何度か田井中さんの出演するジャズバーのステージに上がらせてもらって演奏させてもらったが、最終日近いときの演奏がスイングもソロも本当にとても良いフィーリングだ、と感じてたら、明らかに自分の演奏に万来の拍手が送られてきた。本場のお客さんたちは演奏のフィーリングの良しあしにとても敏感に反応するのだ。

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すごい、自分もジャズの魅力がすべて詰まったこのニューヨークに住んで、シーンの一員に加わりたい。それほどにこの街は魅力的だった。

しかしもうそこまでがんばれる気がしなかった。
代わりに思ったのはこんなことだった。

このニューヨークの経験で、音楽は街から、その土地から生まれてくるものだと感じた。一層自分の中で、住む場所と自分との連関について思いをめぐらすようになった。オレが日本のローカルでジャズを演奏する意味とは・・?問答をしながら相変わらず山には、登っていた。

東日本大震災からの就職活動

そうこうするうちに、2011年を迎え、東日本大震災が起こった。オレは横須賀の自宅にいて、あと5秒揺れたら家が倒壊するかも、と怖い思いをした。

その後は周知のとおり、大変な時間を日本中が過ごすことになるが、兄が帰宅難民になったり、勤めているアウトドアショップから寝袋やテント、ガスバーナーなどが根こそぎ売切れたり、計画停電で暗くなった街を電車から眺めたり、自分も街に住むことの脆弱性を身をもって感じた一人である。

そして誰にも求められていないのに、自分がやりたいという思いだけでやっている音楽に何の価値があるのか、助けが必要な人の役に何一つ立ってない自分はこのままでいいのか、という思いを強く持つようになる。

とはいっても今からどうすればいいかわからない。就職経験もないまま30歳を超え大した資格もない。

ドラムスクールの講師の募集に応募しても型どおりの模範演奏ができないことで不採用。

通るとも思ってなかった市役所職員試験は奇跡の筆記試験を通り、一次面接もなぜか通過、最終手前の二次面接までたどり着いて、これはもしかするともしかするかもしれない、という欲が沸いてきた。

二次面接は7~8人近い面接官に囲まれ、あなたならこの市をどうすれば元気にできる?というような質問に、オレは急遽準備した面接試験対策の本の模範解答に倣った答えを披露した。
面接官は一言、「いや、私たちね、あなたの経歴がとても興味深くて、だからあなたからしか出ないようなアイディアを期待してたんだけどね、、、」

考えていたことはあった。ジャズの街と呼ばれているこの街にニューヨークの音大と提携した音楽大学を設立して、市内のジャズクラブには助成金を出し、ジャズミュージシャンが育つ街として魅力ある街づくりをします!

実現性などなんでもよかったのだ。オレはオレの役目をとらえきれてなかったのだ。

アウトドアショップの正社員試験を受けたときもそうだ。与えられた時間はわずか1分の自己PR。
それ以前からアウトドアウェアと、農作業用の服装の親和性に目をつけていた。当時たまに行っていた農業体験を通して、手持ちのウェアの使い勝手が良いと思っていたのだ。
当時農作業というといわゆるダサい服ばかり。アウトドアブランドだったらカッコよく農作業できるじゃんということで、農作業用に特化したウェアを提案しようと思っていた。

が緊張のあまり、意味のないことを口走り、1分終了。わざわざ大阪まで面接いってこの失態。

その後、そのブランドは農作業ウェアとしての汎用性を押し出してきて、今や農家はみんな着ている。ああ、あそこでPRできたらなあ。

そのほか、経験を活かせそうな企業は、すべて門前払い。それはそうだ、みんな100通を超える履歴書を書いては送って、それでも就職先が見つからない、という経験をしてきている中で、他人にはできない経験を数多くしてきました、だけではどうにもならない現実にやっとぶち当たることができたのだった。

ジンバブエ ~ワークキャンプ~

その当時、今の奥さんとなる女性とお付き合いをしていて、同じショップにバイトで入って出会った。

聞けばアフリカに一人で半年間バックパックしてきた、という。そして岐阜の恵那という場所の出身だという。
オレは彼女を通して初めて岐阜という場所を認識し、恵那という初めて聞く場所について知ることができた。

そのころには仕事を探していて、もはや横須賀を離れることは覚悟はしていたが、田舎暮らし、という概念はまだあまりなく、山に近い方が便利だろ、とかその程度だ。

そのうち、彼女から一緒にアフリカに行かないか、と誘われる。ワークキャンプなるもので2週間のボランティアをしたいという。

アフリカは音楽活動しているときから興味はあったので、人生の経験として行っておいて損はないと思い、誘いに乗る。

行先はジンバブエ。

これまたオレの認知の中に存在しなかった国である。

ジンバブエでは、障害を持った子供たちの施設のお手伝いをすることになった。まあやることは草刈りとか施設回りの環境整備がほとんどで、あとは子供と遊んだりとか、休日には現地のボランティアリーダーに連れて行ってもらって市場や、郊外のキャンプなどにも行った。

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ジンバブエはハイパーインフレで有名だが、イギリス色の強い時代に裕福だったこともあり、特に都市部では人々の誇り高さのようなものを感じた。

今はインフラもどんどん壊れていって直しようもない現状ではあるのだが、「いつかはまた我々だって」という思いなのか、自分たちがかかわった人に関しては、前向きに今を生きていた。

またジンバブエを出たあとも、南アフリカやスワジランド(現エスワティニ)を数週間巡っていく中で、自分がこれがなくては生きていけない、豊かな生活なんて考えられない、とこだわっていたものなど、なくても人としての暮らしはあるのだと感じた。

東京に戻れば、すべて「あった」。けどこれが震災のようにすべてなくなっても、ひとたび生き残れば、自分の力で立ち上がらなければどれだけの公助があっても本当の意味で生きて暮らすことはできない。

時は戻るが、彼女と付き合いだしてから、何度か恵那の実家に遊びに行っていた。正直、こんな都会から離れた場所でどうやって流通が成り立ってるのか、となり近所とこんなに離れてて孤独感に苛まされないか、風呂は薪、山水引いたり汲み取りの下水の状態で近代的な生活が送れるのか、という疑問ばかり浮かんできて、自分が住むイメージはあまり沸いていなかった。

しかしジンバブエやアフリカで触れた人々の生活は、自分のこだわりなど吹けば飛ぶような、そんなわずかなものでしかないことを、雄大な景色をバックに感じさせてくれた。

だから日本での生活に戻った時には、どこでも暮らしていける、という自信になっていた。

恵那へ

ジンバブエから帰って間もなく、彼女が恵那市のホームページで「ふるさと活性化協力隊」の募集を見つけてきて教えてくれた。地域おこし協力隊に準じた恵那市独自制度だ。

見れば「職歴・年齢問わず。まちづくりに関する企画・運営・事務全般」そして「現在都市部に在住している人」という募集要項。

まず最初に思いうかんだのは「オレでもできる」

すぐに地方行政やまちづくりの資料を漁って、履歴書に長々と応募動機を書いて送った。ほとんど上で書いてきたようなことを書いたと思う。

その中にこんなことを書いた。

「震災後あらゆるインフラに頼らなければ生きていけないことに気が付いた都市部では今や、暮らしを自分で成り立たせることのできる技術や知恵を持った農村部の人たちは尊敬の対象です。」

これはオレの中の希望的な見方だったかもしれない。けど、「そうなりたい」というオレの願望だったかもしれない。

恵那市岩村町まで出向いて受けた面接のあと、採用の知らせを受けたのが2012年3月終わりのこと。ジンバブエから帰国したのが2012年2月初め。およそ2か月弱の間にオレの恵那への移住は決まった。

移住してどうだったか

長い話になった。この後恵那での生活、協力隊としての活動などなど、また紆余曲折はあるが、今年9年目を迎えて移住してよかったと思えてるし、子供たちのことを考えても、ここを離れて街で暮らしたい、という気持ちはない。

移住前の数々の思索について、それを検証してみてもいいが、結論から言えば、あって当たり前だったものがなくてもほとんど支障はなく、あっさりするほど普通に暮らしている。

とにかくどこでも住んでみれば、その土地なりの生活が始まり、便利も不便もあって、まあ恵那ぐらいだったらド田舎とも言えず、今もこうしてネットで発信なりビジネスなりできている。

電車もバスも不便だけど車で事足りて、だいたいあまり外に出ない。

上下水道はないけどiPhoneはあって、アマゾンはすぐに来るし、子供は鬼滅の刃を配信でみている。

薪で風呂を焚くのは当たり前のことになって変える必要を感じていない。

自然の恩恵を受けてると感じることもあれば、脅威となってビビることもあり、素晴らしい生活の知恵を持つ人もいれば、そうでもない人もたくさんいる。

真夏の農作業や草刈りは正直逃げ出したくなるほどで、町内会の役の多さにもへきえきするが、どちらもやってみればなんかしら自分の暮らしの糧になるとも思える。自分でコメやら野菜やら作ったり、そのおいしさはもう格別だ。

例えばスーパーなどで店員と客という垣根は低く、慣れればすぐタメ語、人懐っこさに心温まることもあれば、節度を持ってほしい時だってある。

東京や都会にあるものがなくても、楽しいことは自分たちで作ろうという精神はここで学んだ。

なんだかんだ音楽も続けていて、目的とか意味とかなく、音楽が好きだという思いを満たすためということだけで十分になった。

何よりも、独身の時には自分は一生独身だろう、子供を持つとか考える余地もない、と思っていた自分が今は二児の父親になっている。

街の中であれほどふわふわ軽やかに揺らめいていた自分が、今はこの地で家族と暮らすということの中で、(体重とともに)重みを増している。

昔ながらのコミュニティのつながりが残っていることを、今の日本に必要なのはこれだと感銘を受けながら、生来の個人主義気質と都会っ子感覚が変わるわけではなく、ストレスになることもあるが、そんな自分をなだめすかしながらなんとかやっている。

田舎に暮らしたからと言って、理想の自分や暮らしが手に入ったわけではない。ただただその土地には土地なりの暮らしと人があって、そこに自分と家族とが紆余曲折しながらかかわりあい、少しずつ自分たちの暮らしというものが形づくられてきた。

そこにはふと「これを幸せと言うんじゃないか」と一見代り映えのしないような毎日の中に見つけられる物語のような瞬間がそこかしこにある。

今はわからないが、オレが協力隊になった当時はまだ黎明期ともいえるころで、協力隊になるような人はどこか都会で行き詰まり、社会で生きづらいと感じているような人が多い、というデータがどこかにあった気がした。

移住前の「詰んだ」状況から考えれば、移住はオレにとって総合的にみて人生をいい方向へと進めることができた、と言えよう。
そしてそこには移住した自分を支えてくれた数多くの人の存在があったわけで、そうした人々への感謝を忘れずにいたい。

移住後のあれやこれやについてはまた今度。

移住に至る経緯から得た、伝えたいこと

移住する人には十人十色の理由があるであろうけど、オレは将来に行き詰まった結果、移住に活路を見出したタイプになるだろう。

もし今、同じように目標も見失ってどうしたらいいかわからない人たちに言えることがあるとすれば、
〇〇を失ったら生きていけない、とか、○○がない人生なんて考えられない、とか、そういうこだわりは自分が決めていることであって、実際になくなって困ることはそうそうない、ということだ。
逆にいえば、田舎にいけばうまくいく、とか、これを手に入れればうまくいくのに、とか言うことも、100%満たされることはない。

養老猛司さん曰く「ああすれば、こうなる」というのは人間の脳内で作り出したことであって、自然は必ずそうなるとは限らない。
人間の生きる社会の中にも、自分自身の中にも絶対というものはない。自分の身を置いた場所で、自分なりの暮らしがあるだけだ。場所を変えれば今までのこだわりとはまた違った心豊かさを感じることもあるだろう。行き詰まっているならその選択肢を考えるのもいい。

しかしこだわりを捨てることだけが選択肢でもないし、でもこだわりを捨てても自分を捨てるわけでないと知っていた方が、自分を追い詰めずに済むかもしれない。

まあそれもこれもオレの経験の中の話なので、移住こそ素晴らしき解決策だ、というつもりはない。人によっては「こだわりを捨ててはダメ」「自分を信じれば必ず思いは叶う」というだろう。それもその人たちにとっては真実だろう。

情報が多すぎてさらに迷宮入りしかねないが、そんなときはやはり自分を揺さぶってみると良い。自分で気づきを得たものは誰かの箴言よりも強く、自分を支えてくれる。

どこで揺さぶられたらいいか、行くあてのない人はひとまずうちに来ると良い。それでこそ移住した甲斐があるというものだ。

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