ミハイル・バフチン「小説における時間と時空間の諸形式」
「サザエさん時空」という言葉がある。物語の季節が変わっても、キャラクターが年を取らない作品を指すときに使われる言葉だ。マスオさんはいつまでも働き盛りだし、イクラちゃんはいつまで経っても「ばぶー」しか言わない。『サザエさん』の世界はそのようにつくられている。現実とは異なる時間が流れている。
私たちはこうした作品の構成について見慣れてしまい、キャラクターが年を取らないことにそれほど違和感を覚えることはない。ただ変なことは確かなので、ときどき思い出したかのように「サザエさん時空」といって笑うが、その程度である。
けれども、こうした現実とコンテンツの時間の在り方を真剣に考えたひともいる。それがミハイル・バフチンである。
ミハイル・ミハイロヴィチ・バフチンは、1895年にロシアのオリョール市で生まれ、1975年に亡くなるまで、文学作品の分析を通じて言葉に関する様々な概念を提唱した文学者・哲学者である。例えば、有名な概念として「ポリフォニー」や「カーニバル」が挙げられる。そのバフチンが最晩年まで手を加えていた論文が「小説における時間と時空間の諸形式」であり、小説における時空間と作品の関係を論じている。
彼は、作品に流れる時間は現実の時間を再構成したものと考える。しかし、それはそのまま現実の時間の流れを反映してはいない。現実からの影響を受けながらも、現実とは違う法則性・体系を個々の作品はもっており、現実の時間をどのように再構成するかによってキャラクターの造形や話の筋にも影響を与える、というのが「クロノトポス」論の骨子である。
例えば、バフチンは古代ギリシア小説の多くが「冒険的な時間」で構成されていると定義する。彼の念頭にあるのはヘリオドロス『エチオピア物語』などの絶世の美男美女が困難を乗り越え、結ばれる話であるが、これらの作品において出来事は「歴史的時間、日常的時間、伝記的時間、基本的な生物学的・年齢的時間のどの系列にも組み込まれて」いないため、ふたりは幾多の危難を乗り越えるも、年を取らず美しいまま結婚にいたるのである。
また「冒険的な時間」の特徴として、「偶然」に支配されていることが挙げられる。物語は、二人の仲を裂く事件の短い断片によって構成されており、どの事件も理由なく始まり、理由なく終わる。事件の発端は「運命のいたずら」によって開始されたと述べられ、恋の邪魔者は航海中に生じた嵐のせいで海の藻屑となるも、恋する二人は偶然助かる……万事がこの調子なのである。
同時に彼らを取り巻く世界も、交換可能な世界となる。冒険が繰り広げられる空間さえあればいいので、場所についての必然性もないのである。それゆえにギリシア小説の主人公たちは抽象的な時空間を生きていることになる。
その結果なにが起こるのか? バフチンによれば、「冒険的な時間」で構成されることで作品のキャラクターの自己同一性が強化されると述べている。数々の試練や冒険と対峙するが、それは二人の愛を確かめるものとして機能し、これらの出来事を通してもふたりの生の在り方は変わることがない。むしろ試練を乗り越えた愛として強化される。「冒険的な時間」は主人公像を変える力を持たないのである。
現代において、こうした作品は少なくなっている。多くの人が、主人公たちに変化を求めている。困難を克服して、成長する姿が見たい。だから、コンテンツ産業では主人公像に変化をもたらすプロットが推奨され、ハリウッドでは方法論として先鋭化している。バフチンによれば、こうした主人公像が変化する作品は近代以降に増えていったという。
しかし、一方で「冒険的な時間」によって構成される作品はなくなることはない。それどころか、最近では「異世界転生」と呼ばれるジャンルの作品群もある。「異世界転生」とは、現実世界で不遇の人生だった主人公が、異世界で生まれ変わって活躍するというジャンルである。「異世界転生」には、多くのパターンがあるけれども、その大多数は現実の時空間ではなく、ドラクエのようなゲームの世界が作品に取り込まれていることは有名である。バフチンが想定していたのは、現実の時空間をいかに作品に再構成するか、それによって主人公像やプロットにどのような影響を与えるかという問題だった。けれども、いまではフィクションの時空間をフィクションにおいて再構成するとはどういうことか? という問いにまでつながるようになった。
「異世界転生」においては、フィクションの世界に転生することで、現実がもっていた社会的・身体的・物質的制約から自由になれる。たとえば美女とのハーレムを実現したり、チート能力を発揮し超人的な活躍をしたりする。他にも、現実にはありえない人間関係をつくり、現実にはない食材を楽しむことができ、現実では叶わなかった復讐を実現したりする。つまり、現実の世界でできなかったことを異世界において実現しているのである。この点で、「異世界転生」の「冒険的な時間」は古代ギリシア小説とは異なる。「異世界転生」の多くは現実の時空間を否定しようとする欲望が感じられる。自己同一性の強化ではなく、現実における自己否定がそこにはある。
バフチンは、初期の論考である「行為の哲学によせて」において、一般的な誰にでも当てはまる理論の世界とわたしたちが生きている現実世界という二つの世界を定義し、その断絶を問題視したことがある。その際、理論の世界を「下書き」に、現実の世界を「清書」に喩え、主体の参与によって無数の下書きの状態を脱し、最終的な清書の状態に到達するとした。バフチンにとっては、清書が目指される状態である。しかし、現代はそうではないのかもしれない。むしろ、下書きにこそ可能性を感じる時代なのかもしれない。近代においては、変化する主人公こそ、あるべき姿と考えられていた。けれども、現代においては、「冒険的な時間」の変化のほうにこそ、時代の精神があり、見るべきものがあると思う。