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小説を言語学で考えてみる 野口武彦『小説の日本語』

小説をもっと考えられるようになりたい。でもその手掛かりがない。読んでも読んでも、なんだか言葉の表面をなぞっているだけで、最後に面白かった、なんて感想しか浮かばない。
もちろん、それでもいいという人もいる。しかし、一方でその面白さを分析したい、という人もいる。なぜ面白いと感じたのか、なにが面白い部分なのか、自分の言葉で考えてみたい。
野口武彦『小説の日本語』はそうした悩みにたいして、ひとつのヒントをくれる本である。本書の提案は小説を言語学の切り口で読んでいこうというもの。著者はその名の通り「小説言語学」と呼ぶ。果たして小説言語学のレンズによって、小説の読み方はどう変わるのか?

小説言語学では、意味論、統辞論、語用論という切り口で作品世界の要素を取り出す。これらは、アメリカの行動主義言語学者、チャールズ・モリスが提唱した記号学の用語である。

ひとつずつ簡単に紹介すると、意味論とは、言葉と言葉によって示された対象との関係を扱う研究分野であり、例えば、作中人物や作中人物の行為といった作品の内容を検討する。次に統辞論は、書かれた言葉と言葉の相互の関係を扱う。この分野では、どんな単語や助動詞、助詞を使っているかといった言葉の選択について考える。最後に語用論は、言葉の使用者と言葉の関係を扱う分野である。言葉は、何かしらの意図をもって発せられる。そこで本書は、小説も言葉である以上、意図をもって書かれる、という立場に立ち、作者の意図を検討する。
これらの3つの切り口で作品の要素を抽出する。抽出の際に大切なのは、それぞれの領域を掛け合わせて考えることだ。意味論と統辞論の関係から何が見えてくるか? あるいは語用論と統辞論の関係から何がわかるのか? こういう発想である。

ここで注意が必要かもしれない。本書の事例を取り上げる前に、語用論について補足したい。日本では1970年代以降、テクスト論という、作者を括弧に入れて作品を検討する方法論が定着した。その結果、文芸批評や思想を学んだ一部の人にとって、作者の意図を探る方法はあまり人気がない。抵抗感がある。しかし、語用論的な方法は今こそ必要ではないかと思う。なぜなら、語用論は、作家の伝記的な事実に依拠するのではなく、もっと広く作家が位置する文脈をも検討する分野であり、こうした文脈を検討する文章は今後も必要になっていくと考えられるからである。
作家の意図は、なにもそれ単体で自立して存在するわけではない。作家を取り巻いていた状況も含め検討しなければならない。つまり、作家の意図を考えることは、その背後にある文脈を考えることでもある。例えば、日本では自然主義、私小説といった作家=作中人物と見なす考え方があったが、それへの批判として、自然主義、私小説のパロディを作品として世に出す、ということがある。語用論はこうした領域も扱うことができる。
もうひとつ、今の時代は文脈が失われていく時代だということである。インターネットでアクセスできる情報は、検索対象の「それは何か?」に答えてくれるが、「それはなぜそうなったか?」までは教えてくれない。あるいは書評系のサイトや動画コンテンツでも、ひとつの作品を紹介しても、その当時作家が置かれていた状況や文脈までは紹介してくれないことが多い。この状況が続けば、作品を語ることは作品単体を語る行為だけを指すことになってしまう。しかし、文脈がわからないと、作品の面白い部分に気づけなくなる。先ほどの例でいえば、自然主義、私小説のパロディとして書いた作品がパロディとして認知されなくなる、といったことが起こりうる。それゆえに、作品の面白さを伝えるためにも、語用論的視点は必要である。

話が横道に逸れたので、改めて本書で取り上げている分析事例を紹介しよう。
本書では、森鷗外の『舞姫』を取り上げている。『舞姫』を国語の教科書で読んだという人も多いだろう。あらすじを簡単に記すと、主人公の太田豊太郎がドイツ留学した先で、美しい少女エリスと出会い、交際を始めるが、そのせいで免職の憂き目にあう。しかし、友人の相沢謙吉の助けによって立身出世のコースに戻ることになり、最後は身籠ったエリスに別れを告げないまま、日本に帰国する。エリスはそのショックから精神を病み、病院で過ごしていると人づてに聞く。
意味論のレベルで作品を検討すると、豊太郎の行動が倫理的に正しかったかどうか、といった議論になりがちである(要は豊太郎はクズかどうかという話)。しかし、ここに統辞論的視点と語用論的視点を加えるとどうなるか? まず書き出しを引用する。

石炭をば早はや積み果てつ。中等室のつくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。

森鷗外『舞姫』

統辞論とは、文章の形式を、つまり文体を捉えることである。だから『舞姫』の文体は、まず言文一致体ではなく文語体で書かれていることが重要である。そして、文語体は文語体でも、当時あった漢文体を採用していない点も注目される。著者はこの文章を以下のように当時の漢文体で書いて比較を試みる。

煤、既に積載す。中等房の卓辺寂静として、熾熱燈の光、空しく明亮たり。毎夜集ひ来たりて骨牌を打つ夥間、今宵、旅館に宿して、独り我のみ舟上に在ればなり。

野口武彦『小説の日本語』

漢文体では印象がまったく異なるのがわかる。ここで失われるものは何か? それは抒情性である。文章を見比べてわかるのは、『舞姫』には多様な文末助動詞が使われていることである。こうした助動詞は漢文には存在しない。『舞姫』は漢文体ではない、独自の和文体を使って、抒情豊かな文章を生み出している。
なぜこのような文体を採用したのか? 語用論的観点から、森鷗外自身の恋愛体験の抒情的ロマン化が目指していたからだと、著者は考える。森鷗外は自身の美しい体験を、抒情性を損なわずに表現するために、漢文体ではなく雅文体を採用しているのである。このように読み込むと、『舞姫』の味わいが変わってこないだろうか? 少なくとも単純に主人公の行動だけ論じることはためらわれるようになるだろう。

本書の前半部は理論編、後半は理論を使って時系列順に実作を分析という構成になっている。森鷗外以外にも、二葉亭四迷、自然主義文学、谷崎潤一郎、横光利一といった作家の分析も行われる。二葉亭四迷の言文一致体は、ただ話し言葉を書き言葉に置き換えたというものではないこと。自然主義文学は、語用論上、意味論上の制約が統辞論に反映されてしまうという話。谷崎は文体変遷を可能にしているもの、志賀直哉にはなく横光利一以降の世代が抱えた言葉と自己の乖離。こうしたテーマが言語学の知見から次々に語られ、大変面白い。小説を読む上でのヒントになる。小説の読み方が広がっていく。深まっていく。


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