人生変わる、の定義って?
こんにちは、ナツです。
【検証中】手帳で人生変わるのか?のレポート更新は明日なのですが、なかなかに筆が進まず現実逃避中です。
書きたい内容がない訳ではないのですが、どうやったら見つけて読んでくれた方に、悪くない時間潰しだったな、みたいなことを思ってもらえるかなーという点で手が止まります。
さて、レポート更新の前日である本日は、なんでそもそも人生変えたいと思ってんの?というところを少し前日譚的な感じでお話しできたらいいなと思っています。
自己肯定感低めを拗らせきったらこうなる
そもそもなんですが、「こんな底辺の人間がいるだろうか」と自分に対して思いすぎると、ゲーム失敗しまくってイライラしちゃってリセットボタン押しちゃう、みたいなことをしたくなったりするんですが、そんな経験ないですか?
ゲームばっかりしてる世代はダメだ、とわたしが子供時代に大人からよく言われたものですが、大人の顔色伺ってゲームもそこそこにしかしなかったわたしとしては、好き勝手ゲームして勉強もせず、オンラインゲームの上位に課金も重ねて食い込むような弟の方が、今幸せそうだなと思っています。
(そして結果親も弟の幸せが誇らしそうです)
人生は簡単にリセットできませんし、臆病でチキンなのでそんなにほいほい人生のターニングポイントなんて作れません。
でも、気持ちの底に燻る、「これでいいのか?」みたいなやつ。
それは「人から見てどうか」じゃなくって「人の顔色を伺って人に合わせる自分のままで幸せだろうか?」っていう疑問です。
それを考えていても、実際は人に合わせている方に慣れてしまってるので、幸福度は高くなくても楽度は高いから、慣性の法則みたいなもんで毎日するーーーっと何にも引っかからずに過ぎてしまいます。楽でも楽しくはないので、普段の生活が空っぽな気がするんです。贅沢すぎる悩みなんですけども。
いやでも、引っ掛かりたいじゃん?
なんかこう、あー楽しい!!!みたいな気持ちを、
もうちょっと頻繁に持ちたい。
と思って、たまに温泉に大課金してみたり、慣れない釣りについて行ったりしてみているんです。
学生時代から、人の顔色を伺っては、こういうふうにしておいたほうが当たり障りなさそう、と言うラインを選ぶクセがついてしまったので、自分のことでも自分の選ぶことが正解…か?と疑っちゃうのがよくない気がしています。
それはそれで全く全部ダメだってわけじゃないけど、今なんか違和感を感じちゃうのはその意思決定に他の人の同調がないと不安になっちゃう、というところです。
いじめの経験は根深いもんです。
たとえ狭い学校の中でも存在を全否定される3年間って、大人になっても残っちゃったりするしね。
やったほうはもう忘れてると思うけども。
このお話は過去にも書いているのですが、興味がある方がいたらまた向き合って書くことにします。
考えてたどり着いた結果が「納得できる自分になる」ことだった
そんなこんなで過ごしてきても、そりゃ他人の承認がないと一歩踏み出せない、みたいな生活をしていると、違和感もぽこぽこ湧いてくるんです。
自分への期待が高いのかもしれないのですが、もっとなんか納得できる自分っているんじゃないかな、とか。
憧れと妄想と理想のごちゃ混ぜ丼みたいなイメージだけれど、それが頭や心にこびりついてしまったんならもうしょうがない。
全くその通りになれなくても、近づく努力はしてみたら楽しいかもしれない。
そんなふうに思って、高校時代に刷り込まれた方法を思い起こしつつ、今過ごしています。
いくつからでも遅くない、というのは結構聞く言葉ですが、始めないよりは始めた方がやっぱりいいよね、という感じで、もっと若い時に一生懸命やっておけば良かったよ、とはめちゃくちゃ後悔しています。なので、あとで誰よりもわたしが後悔しないか?というのは、何かを決めるときに大事な問いかけだなぁと。
でも月日は巻き戻せないし、今始めると決めたなら、そこが1番早いタイミングなわけで。それを邪魔する[ズボラさ]という敵をやっつけよう、という気持ちです。
何者にもなれなくていいから、自分がもう少しだけ愛着の湧く自分になりたい。
それが今回の検証中の目的です。
長年付き合ってきたズボラさとか臆病さってなかなか手強いんだけどね!笑
ちょっとずつでも変化を感じられる毎日は、前より気に入っています。