【メンバーインタビュー・前編】山口竜 お金を稼ぐ厳しさと人の優しさに触れた20代でした
IGNITIONは2024年4月1日に、千葉県袖ケ浦市で就労継続支援B型事業所「わくぽに」を設立しました。
就労継続支援B型事業所とは、一般企業での就労が困難な障がい者の方へ、事業所内で生産活動等の就労の機会を提供したり、就労カリキュラムを通じて、スキルの向上のために必要な職業訓練を行う福祉サービスです。
日本で初めてアクアポニックスと障がい福祉事業が手を組み、日本平均が15,000円の工賃のところ、4.5万円以上の工賃を目指します。
今日は山口竜(やまぐちりょう)さんのインタビュー記事をお届けします。山口さんは障がい者福祉業界に20年以上携わってまして「わくぽに」のサービス管理責任者として入社いただきました。
山口さんのご経歴はこんな感じ。
・社会福祉法人大泉旭出学園職員。
・ベネッセスタイルケア障がい者採用責任者、ベネッセA型事業所長。
・医療法人メディカルクラスタ多機能型事業所長。福祉事業部長。
・川崎市立麻生支援学校運営協議会委員。
1968年2月生まれ。
障がい者福祉20年以上。福岡県出身。居合道二段。
山口さんのような経歴の方が、なぜIGNITIONに入社することになったのか・今後どんなことを成し遂げていきたいのか、お届けできればと思います。
前編は、山口さんの幼少期時代から福祉業界に参入するまでのお話です!
お金を稼ぐ厳しさと人の優しさに触れた20代でした
――山口さん、今日はよろしくお願いします。今日は山口さんの過去・現在・未来を聞いていきたいんですが、20代の時何してましたか?というのを重点的に聞きたいです。山口さんの福祉のすごいご経歴の中で、20代の何者でもないときの失敗談とか経験があったから今のご経歴がある、ということを皆さんに伝えたくて、、
山口竜(以下、山口)
なるほどねー、はいはい。人と違うかもしれない(笑)。今56歳なんだけど、ちっちゃい頃は体が弱かったのよ、ずーっと喘息で。なので、剣道を習わされたのよ。どちらかというとやっぱ鍛えろと(笑)。
親父は剣道の有段者だったし、先生も結構有名な方で3人兄弟全員剣道を習ってました。
体が弱かったから学校行けてないんですよね、喘息発作があると。半分ぐらいしか行けてないから学校の先生から一学年ずらしますか?って提案をされたくらいでした。
それなりに義務教育を終えて、思春期になると反抗しますよね(笑)。なんかもう早く家出たいなって思って、高校卒業してすぐ東京に出てきて、親は勝手にしろっていう感じだったんで、勝手にするよって感じで、家出同然でしたね(笑)
それで、何やるかっていったら住み込みで新聞配達するんですよ。早朝の知らない街で、もう雪なんか降ったら大変じゃないですか(笑)。まあ、そこが生きてくって大変だしお金稼ぐってこんなに大変なんだなって学んだ最初のところですかね。
――新聞配達以外の選択肢はなかったんですか?
山口
なかったですね。だって10代の資格も技術もない人間がやれることってそれくらいしかないですよね。仕事探しに時間かけてらんないし、食事付きで住むところもあって、もうこれ一択(笑)
――なるほど(笑)。ちょっと遡りますけど、よく剣道をやりましたね。
山口
好きだったのかもしれないね。何かしら運動やりなさいって言われて、水泳を推奨されるんですよね。水泳はあんまり好きじゃなくて、じゃあ何がやるっていったら親がやってる剣道を選びました。
発作起こして、衰弱してるので点滴打つんですよね。点滴打った後に道場行ってましたからね(笑)。なのでやっぱり好きなんだと思う。 体力もついて、喘息も落ち着いてきたから剣道やらせてもらえて良かったなと。
高校の部活でガンガンやるっていうのはあまり好きじゃなかったので、居合道をやり始めました。居合道の場合は型で段を取るんだけれど、高校の時に二段まで取って。運動っていうよりも精神的なところを鍛えさせてもらったって感じですかねー。
――高校卒業後、反抗期的な感じで東京に出るってお話でしたけど、何かあったんですか?
山口
親元を離れたかったんだよねー。東京じゃなくてもよかった。
新聞配達は3年ぐらいやってて、住むところがあって、食事ができてお金もらえてたんだけど、集金しないと給与が差し引かれるからね、結構厳しい(笑)。あとは、本当に冬は厳しいですよ。雪の日とか雨の日は手がかじかんでくるんですけど、バイクのエンジンとかマフラーで手をあっためてました。
あとは優しさですよね。配達してるとあったかいコーヒーを渡してくれる人もいるし、人の優しさを本当に味わいましたね。厳しさと優しさの両面を味わいました。人に優しくするって大事だなあって(笑)
自分が生きるのに精一杯。誰のためにもなってない。社会に関わりたい
貯めたお金でアパートを借り、配達の力はついたからじゃあ次何をやろうかっていったら、ピザの配達をやりましたね。これもピザ食べれるんですよ(笑) 。
今もパンとかピザ作ったりしますけど、作る楽しみをちっちゃなピザ屋さんで学びました。5,6人だったかな。生地こねて発酵させて、色んなもの乗っけて、長机1台分ぐらいのレールがあってそこに乗っけて端っこまで行くと焼けて出てくる。切って、箱に入れて 配達まで全部やらせてもらったから面白かった。こうやって商売ってやれるんだなって。
でも、これって自分が生きるために精一杯だから誰のためにもなってないって感じたんですよね。優しさももらえたしお金ももらえるようになって、社会に関わりたいなって思ったのが福祉に入っていった理由かな。
それで大泉旭出学園の運営する調布福祉園の職員として働くようになった。21とかそれぐらいだったかな?障がいは2つ以上持っている方たちばかりで、言葉も喋れないし、動けない人もいるし。食事取るのもこんな大変なんだなと。
――社会的に関わりたいという部分をもう少し深掘りしていいですか?当時は良い大学に行って良い会社に入りなさいって風潮が強かったと思うんです。社会的貢献って言葉自体、自分が子供の時に触れてなかったなっ思ったんですが、山口さんが新聞配達・ピザ屋さんのお仕事を通して、なぜそれを思えたのか?なぜその先が福祉だったのか?の2点を教えていただけますか?
優しさを自然と出せる人になりたい。道端で助けてくれた土木の解体屋のお兄さんがヒーロー
山口
やっぱり人の優しさって大事だなと思ったんですよ。優しくしてくれる人って社会的地位が高い人じゃない人の方が多くて、それが大きかったかなと。決して裕福な人がね、これ持って帰ってって言うわけじゃないんですよ。
新聞配達してると歩道とかちょろっとバイクで抜けるんです。その時に通勤途中のサラリーマンに絡まれたんですよ。「交通ルール守ってないじゃないか、押していけよ」みたいに。で、そのサラリーマンに絡まれてる時に助けてくれた人がいて。土木の解体屋の人なんですよ。「まあいいじゃないか」って。自分が悪いのは分かってるんだけど「もう行け」って。で、そのサラリーマンに何言ってたか聞いたら「お前んちどこだ?俺解体屋だぞ?家ぶち壊しに行くぞ?」って。今じゃ考えられないですよ?(笑)。
自分にはサラリーマンから逃げさせて、サラリーマンに対しては「お前の家どこだ?」って逆にサラリーマンに絡むみたいな。かっこいいでしょ?その頃はヒーローですよ自分にとっては。まだ二十歳になってなかったから、優しさを自然に出せる大人になりたいなって。この人達って大学で優しさを学んだ訳でもないし、自然にできるんだなーって。
新聞配達の経験って大きかったんですよ。新聞配達してる人って経済的にもギリギリの人が多くて、どこで何やってたか分かんない人たちがいっぱいいるんですよね。貧しい人たちが優しい言葉をかけてお互い助け合ってるところなんかも良いなと思った。
親の価値観への反発心もありましたけどね。親が高校の教師なので、大坂さんが言った通り良い大学に行って、良い企業にってずっと言ってたので。それが何なんだろうな、本当にそうなのかな、いや違うなって分かったんですよね。
けど東京出て感じたのは、生活するのもお金稼ぐのも大変だし、生活とかお金をちゃんと用意してくれた親って偉大だな。無償で何か見返りを求めてやるんじゃなくて、こうやって育ててくれたんだな、と思って感謝したし。
取材後記(大坂)
前編は、山口さんの幼少期から福祉業界にキャリアチェンジするまでをお届けしました。本当に素敵な方に入社してもらったと思ってます。20年以上福祉業界に携わっていて、もっと知りたいこと・疑問に思ったことを解決するためにキャリアチェンジして一つ一つ福祉の問題を解決していく。ここまで徳を積んでる人が他にいるのか?ってくらい、記事を書きながら感動してます。
後編はこちら!!
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