正欲を読んだ友達に送ったLINE
言おうと思ってたこと思い出した
The most unforgettable phrase that is written in 正欲 exists in the beginning.
「街の中のニュースや広告なんかをみてうんざりする。それらのメッセージに暗黙の前提があることに僕は気付いた。それは、明日生きるために私たちは今日生きている ということだ。」
コロナ禍の真っ只中でこの文章を読んで、当時抱いて居た違和感が言語化された気持ちになったのを覚えている。"不要不急", "マスク着用"。
友人と遊ぶことは不要不急だが、これなしに生きることは死も同然だ。命は明日終わるかもしれない。僕の元カノとの同棲生活は、家主の突然の帰宅によりその翌日終わってしまった、一週間前倒して。人生にとって不要不急のこととは何だろうか。また、そういった偶然でありきたりでどうでもいいような出来事が、明日や来年に回収出来るといった傲慢さというか、その人生の計画的さたるや。あの時代の不要不急という言葉は、その性質を持つ行動は一般的に評価できるといった前提も含んでいた。例えば、そういった警告の後には、空港でのインタビューが映し出され、カメラの中で"みんな"に同調圧力を受けながら申し訳なさそうに旅行に行く理由を述べる一般人が映し出される。その姿を見て、私の母はカメラの視線を内面化し、文句を垂れる。そうやって、メディアは見た人を変えていったり、強化したりする。僕の学校でも、マスクを外すと白い目で見られるところがあったし、当時用があって中学校なんかにいった時はさらに色濃く出ていた。担任の先生が特定の生徒が嫌いでいじったりすると、子供はそれを内面化し、一緒になって生徒をいじめたりする。この教師と子供のエコースピーカーな関係は、子供の役割にあたる対象が科学的な判断が出来ないほど強い関係になると思う。
自分はマスクをつけて生活するのがとても嫌だった。それは、「明日生きるために今日生きている」わけじゃないし、「コロナにかからない為に生きている」訳でもなく、「コロナを移さない為に生きている」わけでもなかったからだ。「じゃあ親にうつしたくて生きているのか」と母親に言われたこともある。”移さない為に生きてないなら、移す為に生きている” という二律背反は生きることを単純化している。僕はお盆に乗ったコップの水をこぼさないように生きている訳ではないが、こぼすために生きている訳でもない。具体的な対象を入れ替えれば、目的がどちらかにあるという妄想は消えるが、当人にとってもっともらしい(メディアで放送されるような)命題となると、盲目になってしまうこともある。僕が生きる目的などない。
しかしこれは政治的な話のように聞こえる。二律背反とか、意味論はさておき、マスクをつけない存在、自分から見て不要不急のおでかけをする存在が受け入れられない時、つまり任意のやめてほしい行動をする対象とどう関係を持つかという話。現状、一方(母親)が不満を持っているのだから何か変化が必要だ。私としては、その単純な暫定のアウトプット(意見)の方に変化を加えるのではなくて(それは単純な強制だ)、そのアウトプットをする式を明らかにして、先にような目的論を説明し、式の変数として入れていただくこと(納得)を提案したい。
そんなようなことを思っていたのを、正欲を思い出して、思い出した。