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新卒フリーランスに想うこと
批判の背後に隠された社会的な強制力と逸脱することへの意義について
新卒でフリーランスになろうという人には多くの批判が寄せられる。
「会社では多くのビジネスマナーや知識を学ぶことができる」、「会社でも自分の意識次第でたくさんのスキルを磨き成長できる」、だから「タダでいろいろ学べる機会を自ら捨ててしまうのはもったいない」と彼らは言う。
私はそのような意見があることには何の違和感を覚えない。
大学を出てどこかの会社に就職するのは一般的なことであって、社会の「常識」でもある。それを自ら外れようとする者を批判する人が出てくるのは、むしろ当然のことのように思える。
しかし、彼らが意気揚揚と独自の意見を述べようとしつつも、似たような意見を大量に発生させている事実は気になる。そこにはたんに「新卒フリーランス反対」という意見では収まらない何か大きな力が働いているようにも思える。
フリーランスになるということ
新卒でフリーランスになるというのは非常に大きな勇気がいる。周囲のほとんどがどこかの会社に就職するなかで、自分だけが異なる道へ進むことになる。そして、それは単に「大学」から「会社」に進むというレールから外れることを意味しない。
それ以前の小、中、高と歩んできた「学歴」、あるいはそれを獲得させようとしてきた「教育」。いや、もっと言ってしまえば、そうした学校機関で強制的に身につけさせようとしてきた「組織の中で生きる力」からも逸脱することになる。
目に見えない社会的な強制力
私たちの社会では、知らず知らずのうちに集団と調和し、そこで生きる力を身につけさせられる。幼い頃から自然と学んできた「道徳」も、中学校や高校で盛んに行われている「部活動」もそれを助長させるものではなかったか。
この強制的な力が働く場は家庭や学校機関だけにとどまらない。
・会社に属さないものは民間企業の従業員が加入する健康保険よりも劣る保障しか受けられない。
・会社を自ら去った人に与えられる失業手当は、会社の都合で解雇された人に比べてはるかに少ない。
・会社に属さない人は、社会保険料や年金保険料、所得税、住民税など複雑な手続きをすべて自分でやらなければならない。
私たちの社会は会社に属する人が有利になるように構成されている。
社会保障制度そのものも、会社という組織に属することが前提で成り立っており、そこにある種の強制的な力が働いているように思える。
この不気味な大いなる力のことを一体何と呼ぶべきなのだろうか?
それはある意味で誰からも見えない巨大な機械のようであり、それを構成しているあらゆるものに強制的な動作を強いている。そして、そこから逸脱する者がいれば、それをただちに取り締まらずにはいられない。
逸脱者が創造する未来
大学を卒業してフリーランスになることが正しい選択かどうかは、私には分からない。人によっては正しいものになり得るし、そうでない場合もあることだろう。
ただ、一つだけ言えるのは、誰もが会社に属することは非常に危険な状態でもあるということだ。
それは誰からも見えない大いなる力に誰もが支配され、そこから俯瞰した視点を失うことを意味する。
そこでは、本当の正しさがいつの間にか「集団の調和のための道徳」にすり替えられ、今ある社会をそのまま維持させる方向へと向かうことになるだろう。
会社という社会組織の一つからは、その背後でうごめいている不気味で強大な強制力には気づきづらい。
それに気がつき、批判することができるのは、社会的な孤立を恐れずに自らの道を突き進む逸脱者だけである。
逸脱者は孤独になることを恐れない。
彼らはあらゆる社会的な規範から逃れつつ、私たちに多様なものの見方や生き方があることを提示し続ける。