200205 システム思考のひとつの語り方
「あなたはどうして今ここにいるのでしょうか?」って問いかけから、教員、先生のたまご、高校生の参加する場でシステム思考について話してみた。(どんな反応があるかとてもドキドキした)
一人ひとりがここにいる理由は、教員としての仕事だから、システム思考について知りたいから、あの先生の話が好きだから、など、いろいろとあると思うんだけど、こういうとき、「1つの理由」を探そうとするのが僕らの思考の癖だ。
「1つの原因から、1つの結果が生まれる」というのは、人為的に作られた実験室や紙の上の問題においては正しい仮説かもしれないけれど、地球や社会におけるできごとや、人間に関するできごとにおいては、正しくないことが多い。『世界はシステムで動く』の中でドネラ・メドウズさんも書いている通り、現実においては、「たくさんの原因が相互に影響し合う中で、たくさんの現象が現れている」ことばかりだからだ。
この学校の教員だから、生徒だから、あるいは教員のたまごだからここにいるならば、では、あなたはどうしてこの学校の教員になったのだろうか?生徒になったのだろうか?教員を志したのはどうして?
どんな人に出会ったから?どんな出来事があったから?そのときにどんな風に感じたから?その「感じ方」をしたのは、あなたがどんな人だったから?何を望んでいたから?
あなたをそういう人にしたものは何だったか?どんな場所に住んでいて、両親や親戚、友だちといった環境はどんなものだったか?
もし、生まれた家が違っていれば、これまでに関わった誰かに出会っていなければ、嫌いな人だったけれど自分にインパクトを与えた人がいなければ、あなたはここにいるだろうか?
あなたが通った学校での経験や、受験や採用試験の仕組みもあったかもしれない。では、その仕組みって誰がどうして、どんな時代背景、どんな社会環境の中で作ったのだろう?生まれた国や、あるいは時代が違っていれば、あなたは今ここにいるだろうか?
「あなたがいまここにいる」という1つのできごとを取り上げたとしても、それは偶然のように見える無数のできごとやあなた自身の思考や感情が相互に影響を与え合った結果だ。社会に起きること、人間に起きることはそんなことばかりじゃないだろうか?
私たちは常にその複雑に編み合わされた相互関係性の中で生きている(そして、相互に依存し合っているということが、生きているということだ。真空に命は生まれない)。専門用語を一切使わないでシステム思考を語る1つの方法としては、この「当たり前の複雑な世界を複雑なままに捉える考え方(と感じ方)」だと思う。
その複雑さを受け容れることで、互いに矛盾する2つ以上のできごとが共存することを認められたり、ついつい思考に境界線を引いて世界を単純な白と黒に分けてしまいたくなる気持ちを保留できたりできるのかもしれない。そして、深く長く絡み合って解明し得ない世界をより深く洞察できるように思う。
いろいろなモデルやツールは、解決策を導く手段ではなく、その解決策の基盤となる人間の洞察を深めたり、人間の思考の習慣を育んだりするための手段だ。ここを誤解してしまうと、拙速に成果を求めたり、答えが出ないことにイライラしたりして、自らの成長の機会を自らの手で投げ捨ててしまう。
『学習する組織』の冒頭に、こんなフレーズがある。大きな問題を小さく分けて解決して、あとで繋ぎあわせようとすることは、まるでバラバラに砕いた鏡の破片を拾ってつなぎ合わせて、完璧な反射を取り戻そうとするようなものだ(意訳です)。同書の一側面は、要素還元主義的な近代の経営思想へのアンチテーゼだ。
そのとても短い最終章のタイトルは「分かたれることのない全体」。その奇跡のような美しさ。