【激動の一年】銀座のOLが縁もゆかりもない長野県塩尻市で二拠点生活をすることになるまでの話【二拠点居住】
私って運がいいんです。人運?っていうのかな?節目節目でいつも、勢いのある人達に出会い、そうした出会いが大きく自分を成長させてくれる、そんな経験を繰り返しながら、本日33歳になりました。特にこの一年は本当に”激動の一年”、結婚・独立・移住。多くの新しい出会いが、28歳頃からなんとなく鬱々としていた私をトンネルからグググィっと引っ張り出してくれたような、そんな一年でした。
■”神がかった”メガネとの出会い
厳密にはメガネに出会ったのは、一年と数日前の8月25日のことでした。”メガネ”はこの約5ヶ月後に私の旦那さんになる人で、「地域と東京をつなぐメガネ」という肩書きで活動しております。お気づきの通り、私たちはいわゆる”スピード婚”です。昨年の今頃、私は銀座の某大手不動産会社に勤め、平日はLittle Japanというゲストハウスに滞在し、週末には実家に帰るという暮らしをしていました。この頃の私は精神状態が非常に悪く、朝が来れば早く夜になることを願い、夜になると明日が来るのが嫌で嫌で嫌で…という毎日を過ごしていました。自分に自信がなく、現状は辛いけれど何も変えることはできないし、ただただ耐えていくしかないんだな、と考えていました。出口も照明もない真っ暗なトンネルにいるような毎日でした。そんな折、突然正面からビームライト当ててきたのがメガネでした。「僕、最近神がかってツイてるんすよ〜!」と大きな口を開けて笑う彼には、有り余るほどの自信が満ちていました。独立したてで仕事もなくて彼女もいない実家暮らし37歳が、どうしてこんなに自信を持てるのか?当時の私には謎でしかありませんでしたが、その異常ともいえる自信に圧されて初めての出会いから2週間後には「来年の3月まで」という期限付で交際をはじめました。
■坂勘初往訪
今住んでいる長野県塩尻市に初めてきたのは9月の下旬のこと。メガネが二拠点居住をしていたシェアハウス坂勘でのことでした。宿場noie坂勘は塩尻駅からさらに車で20分の山間にある、築100年の古旅館を改装した(正しくは改装中の)シェアハウスです。坂勘に来るとなぜかみんな働かせられます。床材を切ったり、料理を作ったり、掃除したり、旅行にきているのになぜかみんな働いて帰ります。そうして人が出入りし、共に暮らすことで、少しづつ手をかけて進化し、”みんなの場所”になっていくのが坂勘です。メガネはここの住人第一号であり、家賃を支払いながら、月に一度程度ここにきては、主に重労働に従事していました。
坂勘で出会う人たちは、私にとって”おとぎの国”の住人でした。フリーランス、手に職を持つ人たち、自由な旅人、農家など、憧れるけど自分とはつがう世界。自分のような”つまらない人間”には居場所のない世界。そんなふうに思っていました。…というか、”思い込んでいた”というのが正しい表現です。実際に、坂勘のメンバーやそこに出入りする人たちはみんなとてもウェルカムに私のことも迎えてくれました。私の話を楽しそうに聞いてくれたし、自分の想いを語ってくれました。勝手に壁を感じていたのは私だけで、世界はもっと開かれているのかもしれない、毎月坂勘に通うたびに少しづつ明かりが見えてきたように感じていました。
■水餃子というコミュニケーションツール
坂勘とそこに集まる人が暖かく迎えてくれることに居心地の良さを感じる一方で、「何か私もみんなに提供したい」と考えるようになりました。でも、私には何も特技もないし、何かが作れるわけでもない…悩んだ私はふと思い出しました。「そういえば、私の叔母は中国出身だ。そして叔母の水餃子はめちゃめちゃうまいのだ!」叔母に連絡し、レシピを習得。それから毎週末水餃子を作る日々が始まりました。
水餃子は手段で、私にとって大切なのは”団欒”でした。坂勘で水餃子作った時はとても緊張したけど、みんなで一緒に皮を作って、みんなで食べて、美味しいって言ってもらえて、すごく自信になりました。(今はもっと美味しく作れるけどねっ!)
門仲ennでは、初めてキッチハイクでイベント公開しました。初めましての方の参加も多く、真剣にメモを取りながら話を聞いてくださる方もいて、なんだか気恥ずかしいようでもありましたが、水餃子のコンテンツの強さを新ためて感じる機会になりました。
上野の隠れ家BASEや学生時代からの友人とのシェアごはん会では共同開催という形でイベントさせていただきました。ベリーダンスの先生や仲間も来てくれて、水餃子を通じていろいろなコミュニティの人が混ざってお話ししているのが面白く、なんだかとっても嬉しかったです。そうそう、こうやって餃子の皮作りながら、みんながワイワイ喋ったり飲んだりして楽しんでいるのを見るのが私は好きなんです。食べ物は、人の壁を取っ払ってくれる。この頃の私にとって、水餃子を作ることは、「その場にいてもよいよ」という安心感をえるためにとても重要だった気がします。
(しばらくは、前のように餃子をみんなで作るイベントとかは難しいですが、また何か形を変えて続けていきたいと思っています。)
■鷲田、仕事辞めるってよ。
8月末にメガネと出会い、9月中旬頃には結婚することを決めました。10月頭に「結婚して塩尻市に住みますので、会社辞めます。」と伝えた時の上司の祝福と怒りと悲しみの混ざった表情は…凄かった。実はこの時はまだ移住はあまり考えていなくって、「いずれそういうこともあるかもしれない」程度にしか思っていませんでした。だけど、上司が優秀な営業マンだったこともあり”絶対に覆せない退職理由”が必要だったため「移住します!」と宣言したのでした。11月12月と年末にバタバタと引継ぎなどを行い12月の中旬頃に最終出勤日を迎えました。最後の夜、麻布の石頭楼で送別会をしていただきました。二次会は銀座のバーで飲み、タクシーの車窓から首都高の夜景を眺め、「もう2度とこんな生活をすることはないのだろうな」と感傷に浸りながら銀座から相模原までを帰ったのを覚えています。
会社をやめたところで、何か仕事が決まっていたわけではなく、フリーランスとして何をしていきたいのかじっくり考えて、少しずつブランディングしていこうと考えていました。基本的に臆病者なので精神衛生を保つためにある程度の貯金は用意していましたし。ところが、退職後早々に以前から仕事でお付き合いのあったコンサルの会社にお声がけいただき、個人としてお仕事をいただくことができました。なんでも人には話してみるものです。これはもう本当に感謝で、フリーとしての働き方や人脈形成など、今まさにいろいろ勉強をさせていただきながらお仕事をさせていただいております。マイペースに少しずつ仕事も増やしていければと思っています。メガネもフリーランスですがお互いに得意なことが違うので、助け合って頑張れればと考えています。”フリーランス”がよく理解できない祖母からは「あんたたち二人で”無職”でどーすんのよ!」と言われたのは笑うしかない笑えない話ですね。
■移住を決めた理由
なぜ塩尻?と、よく聞かれます。昨年の今頃はまだ、塩尻?どこ?何県?状態で、上に書いた通り会社を辞めるに至っても移住への本気度はまだ薄かったのが正直なところです。ではなぜ、移住に本腰を入れたのか?というと、直接の理由は「メガネがイライラしはじめた。」からでした。東京でイベント開催を詰め込みすぎて塩尻に行けていなかったメガネが、なんとなくこれからそのことにフラストレーションを感じているように見えたのです。「じゃぁもうYOU塩尻に住めばいいじゃん!」ということで移住を決めました。根拠はまるでないけど、メガネならなんやかんやで塩尻でやっていくだろうと信じていたので、特段不安もありませんでした。それに初塩尻往訪から数ヶ月でこの土地には、一緒に飲んでくれる友達がたくさんできたことも私の背中を押してくれました。歩いて行ける範囲に友達が住んでいて、いつでも遊べるし困ったときには助け合える。東京でどこに住んでいても経験できなかったことがここならある。小さくても、ここ塩尻で二人の生活を初めていくことはとても理想的だと考えました。そうして、坂勘で”寿退去”のお祝いをしていただき、4月中旬いよいよ塩尻での新生活が始まったのでした。
■STAY HOME
ところがどっこい、引っ越したはよいものの、時代はSTAY HOME。初めてメガネと長い時間を二人だけで過ごすようになりました。少し不謹慎かもしれないですが、私たちにとってはとてもよい時間でした。(引っ越していなければ、おそらく別居状態になっていたことでしょう。)
地域で暮らすことの利点は、車があれば結構どこでも行けるってところ。”ど”ペーパードライバーだった私も、引っ越す頃には普通に運転もできるようになりました。おにぎり作って車で30分くらいの高ボッチ高原にピクニックに行ったのもとても楽しかったです。自然は広いから、周りを気にせずに思いっきり深呼吸できて、とても気持ちがよかったです。
オンライン飲み会もかなりの頻度で開催していました。うちはいつもこの食卓囲むSTYLEで参加していました。高知バッフォーネのジェノベーゼを取り寄せてみんなで食べたり、オンラインの料理レッスンに参加してみたり、いつもはしないような体験にチャレンジできたのもこの時期楽しかったです。
■農耕接触
そして同じ頃はじめたのがレタス農家のバイトでした。塩尻の商工会議所の友人を介して紹介していただき、まさに収穫期を迎えたレタスの収穫・苗植えなどをお手伝いしました。朝6時に畑にいき作業開始、8時に休憩で持参したおにぎりを食べながら農家のご家族といろいろお話しして、10:30までに出荷作業を終えて、苗植えなどの作業を少しして11:00過ぎに帰宅。初めての経験と運動不足も解消されて、さらにお金ももらえるとあって二人でせっせと働きました。ちなみに、帽子から田履まで必要なものは全てワークマンです。
6月に入ると坂勘にも再び遊びに行けるようになりました。坂勘では家の裏や近くの休耕地を耕す作業が始まっていて、私も”土の人”の弟子としてお手伝いをしはじめました。”うるい”や”うど”、”ふき”などの野草などを刈り取っては、いろいろ工夫して食べていました。畑のことは、全然知らないことばかりで、教えてもらいながらゆっくり作業するのが楽しいです。畑に少しでも関わると自然に対しての関心度が上がります。「すごい雨だけど種は流れていないかな?」「毎日かんかん照りで水不足になっていないだろうか?」とか、日常的な気候の変化によって生き物に思いを馳せる時間はとても豊かで、”逢いにいける畑”を持つことはとても人を幸せにしてくれる気がします。
■フリーランス本格始動
7月に入り東京での仕事もようやく動き出しました。(契約切られなくて、ほんとよかった…。)週の前半は塩尻、後半はあずさに乗って東京へ、という二拠点生活が、予定よりも3ヶ月遅れでスタートしました。塩尻では、シビックイノベーション拠点スナバにレジデンススタッフとしてジョインさせていただくことになり、何かできることはないかと試行錯誤中。東京でも二拠点居住をしている、ということがきっかけとなり別の新しいお仕事もいただけました。
ベリーダンスのリアルレッスンも復活し、久しぶりにみんなと顔を合わせて踊れるようになりました。ありがちなフレーズだけど、今まで当たり前にできていたこと、それがとっても幸せなことだったのだと改めて感じる日々です。
塩尻ではおうちにもみんなが遊びにきてくれたり、友達のうちでBBQしたり、ようやく”ご近所付き合い”もできるようになってきました。みんなのおかげで、東京にも塩尻にも居場所があって私は本当に幸せ者です。正直、東京と往復する二拠点生活自体にはまだあまり慣れていないのと、少しセンシティブな状況であるのも事実ではありますが、自分なりに今の状況に合わせた二拠点生活を積み上げていきたいと考えているところです。
■そして、本日、お誕生日
こうして振り返ってみても、本当にたくさんの人と出会い、たくさんの新しい経験をし、人生が大きく変わる一年でした。こんな選択肢が自分の人生にあるなんて一年前には想像もできなかったこと、それを実現させてくれたメガネ含むみなさんに本当に感謝です。もし、一年前の私のように人生に閉塞感を感じていて、でも抜け出せずにいるような人がいたら、選択肢はいくらでもあるよ、って、あなたに出会いたいって思っている人はそこにもここにもいるよ、って厚かましくも教えてあげたい。
こんな感じで32歳は本当に盛り沢山で勢いに任せて過ごしてきましたが、33歳は少し落ち着いて、自分のペースで仕事も生活も作っていきたいと思います。
33歳も、おもしろおかしくうつくしく、懇切丁寧に生きて参りたいと思いますので、みなさま引き続きよろしくお願いします!
では、乾杯!
※2月の高知旅。