映画『由宇子の天秤』を見てきた。
先日、映画『由宇子の天秤』を見てきた。
国内公開に先行して海外のあらゆる国で絶賛されていたものの、日本ではまず拠点ミニシアターのみでの公開。
制作もクラウドファンディングをもとに行われたために、公開前のメディアからの宣伝、露出もほぼ無い。
個人的には、とても久しぶりにぜひ映画館に行って見たい作品と思い足を運んだ。
まっさらな状態で映画を楽しみたいので、内容の事前情報はほとんど入れずに行った。
結論から言えばとても面白かった
と同時に予想はしていたが、決して胸のすくような心地の良い映画ではなかった。
そして、映画を見終わって最後に「?」ともなった。
『由宇子の天秤』が監督のどのようなの意図をもって、どんな思想をもって撮られた作品なのかが見終わった直後の私には全く分からなかったのだ。
話題になる作品にはここを伝えたい、描きたいという何かしらの「信念」や「意図」をはっきりと明確に感じるものが多いように思う。
私は映画の内容の面白さと共に、その点にもとても興味を覚える。
だがひとまず何も見出だせなかった。
もやっとするので、ホールでパンフレットにサインをなさっている監督をそれとなくじっくり観察させていただいた。(怖い。)
作った方の人となりが分かれば、作品の意図もおのずと見えてくる事が多い。
だが監督は、(あくまで私の主観だが)映画を作る事がライフワークそうな、人の好さそうな、だがしかし、しっかりと内側にどろっとしたものも抱えている事の可能な方のように拝見したが(失礼。あくまでも私の勝手な主観)やはりその時の私には作品の意図は分からなかった。
そして帰り道、映画を反芻しながら結論として思った。
この観客の状態こそが監督の意図のように感じるな、と
観客が『由宇子の天秤』を見て帰る。
その沢山の観客一人一人がそれぞれの主観で作品についてものを思う。
登場人物の印象を語る。
感想を抱く。
そこまでが作品の一部。
「あなたのこの映画についての、登場人物達についての感想は?」
と問われたような、そんな印象の映画だった。
そしてその辺りを含めて、一本の映画としてとても面白かったのだ。
抱く感想によってその人の価値観、他人や世の中をどう思っているのかが浮き彫りになる「鏡」のような映画だと思った。
ポスターのあおりには「正しさとは何なのか」と書かれている。
しかし私の見た所、登場人物達の全ての言動が
「社会的な正義」と「自分の利益(エゴ)」どちらからのものなのか、
それを見るこちら側からの「正しさ」を判断するための最後のピースはことごとく抜かれていて、
絶対に判別する事が出来ないのではないかというように思える。
私は、芥川龍之介と黒澤明監督の『羅生門』(藪の中)や、コナン・ドイルの『シャーロックホームズ』を摂取した時に近い感覚を覚えた。
『藪の中』は、皆が迫真の演技(もしかしたらそれが事実と信じ込んでいるのかも)で嘘を吐き、事件の犯人が誰だったのか、悪人が誰なのか全く確定できないで終わる。
シャーロックホームズは主に、ワトソン君の視点で物語が進み、事件の犯人と詳細を紐解くための最後のピースは、ホームズが抱え込んでしまって読者は完全な予想する事は出来ずに、ホームズによる解決に向かう事が多い。
そして、もしも『由宇子の天秤』が、観客の多様な感想までが映画の一部なら、ここにはただただ私の思った事を書いていくのが正解のように思う。
というわけでアウトプットしないと収まりのつかない所感を少しだけnote上に書かせていただきたい。
【ここからは多少、映画の〈ネタバレ〉部分が出てくるので、本編を見ていない方は読まない事をオススメします。】
映画の全編を通して、細かい善悪を問いたくなる描写はふんだんに盛り込まれているので、その部分部分に対しての私の個人的な感想は割愛して、
とにかく私が主人公の由宇子さんに対して何度か、そして一番強く受けた印象は
「うっわ~悪魔のような女性だな笑」だった。
彼女には、誰かの秘密(または事の真相や真実)を聞き出そうとする瞬間だけ、本当に高揚したようなイキイキとした嬉しそうな表情(雰囲気)をするように見えるシーンが何度もあった。
ピンチの状況下で自分の保身が守られそうな情報を得た瞬間の、表には出さない安堵と喜びの空気感。
正義を語る瞬間は、私はあなたのため(相手の大事な人のため)にこうしたい、これをしていると言ったり、やって見せたりしながら、誠実そうで真剣な目で嘘を吐いているように見えた。
ただ真実と秘密を暴きたいだけにも見えた。
そういうシーンが来る度、ゾワゾワして怖い怖いとマスクの下で笑けてしまった。
ただ、本当に他人の根の深い深い感情の部分まで暴かれてしまうと、どうしてよいか分からずに、おどついてしまうという子供のように思えるシーンもあったし、自分と似た境遇の子供に同情する、愛情を向けているように思えるシーンもあったが。
誰も、正義の使者のような行動をする彼女の本性に気付いていないのかと思いながら見ていたら、
由宇子さんのその表情を真正面から見たある女性が一瞬、
ソレに気付いた表情をしたように見えるシーンがあって、しかしそのままやり取りを続けていてよけいにゾワッとした。
私はあまり由宇子さんの善の部分には目がいかなかった。人を信じられない病気かも知れない。
全ての登場人物の言動が最後まで「社会的な正義」と「自分の利益(エゴ)」が表裏一体となっており、あるいは「愛と思えるもの」と混ざりあっていて、どこからの行動なのか完全には分からない。
悪魔のようなとは思ったが、私は別に由宇子さんが嫌いじゃない。
お友達にはなりたくないが、とても「人間」らしいなぁと思う。
他の登場人物達もお知り合いにはなりたくないが、人間らしくて嫌いではない。
もしかしたら由宇子さん自身も最後のシーンまで、自分は正義をなしているのだと信じていた可能性もある。
自分自身を愛する事でしか決して満たされない幼少期に出来た己の中の虚を、その事に気付けずに外側の何かで何度も一時的に埋めているように思えた。
そんな人ばかりに見えた。
現実も確かにそうかもしれない。
最後のシーン直前の重要登場人物のもう一人も、その行動の最中の表情が見えないので「誰のために」やっているのか実際は判別がつかない。
途中途中の言動から、頭に血が上りやすく劣等感が強い事、娘に対して一定の愛情がある事は推察が出来るが、一番大事な最後シーンの表情は見えない。
とにかく見事にピースが抜かれていているので、善も悪も結論が出せなくて落ち着かない。
登場人物達の本当の気持ちも本人達にしか分からないが、本人達も自分の本音と建前を理解出来ていないかもしれない。
そもそも正義も悪も存在しない。
もしかすると『由宇子の天秤』に描かれているのはその辺りかもしれない。
そんな風に私は思った。
私の所感はどうであれ、
とても良い作品を拝見した。
素人目ながら役者さんの演技もとても素晴らしく見えた。
だが、個人的には全然心地良くはない。
もしも世の中の全てがあんな風なら私はとても哀しい。
でも、とても大きな映画愛といびつな形の心をどうにも出来ない人物達をそのまま受け入れる人間愛を感じた。
制作関係者の皆様やクラファン支援者の皆様、素敵な作品を有難うございました。
最後に一つだけマジにどうでもいい感想を書きたい。なんであのお父さんただのパン屋なのにあんなにアルトリコーダーが上手いんだろう...
あとドキュメンタリーってああいう感じに始まる謎の演出あるよね...って思った。