タジキスタン・パミール再訪記17 〜ワハーン谷2日目・前編〜
2023年4月30日日曜日。この日の午前中はシトハルヴ村を散策した。
シトハルヴにて
朝はトイレ(屋外)に行くために何度か起きた。布団の中では昨夜に続き、ムルガブへのルートのGoogle Map検索をしたりした。
チュワン(ザルドールー)
午前中はVさんが家の庭と家の近くを案内してくれた。
家の庭には木に花が咲いていた。花は桜に似ている気がするが花のつきかたは桜っぽくない。Vさんにこれは「ギーロース」(タジク語/ペルシア語で「桜」)かと聞くと、ギーロースではなく「ザルドールー」とのことだった。また、ワヒー語では「チュワン」、シュグニー語では「ノーシュ」と言うとのことだった。
ザルドールー(زردآلو)という単語は、よく聞くペルシア語の果物名で、日本人にも馴染み深い果物のはずである。シュグニー語のノーシュもどこかで見たことがある気がする。しかし、具体的に何の果物だったかは覚えていなかった。後でネットで「زردآلو」を検索してみたところ、杏とのことだった。
お墓
家の敷地を出て東側に行き、畑の脇を通って山の斜面の小高いところに登った。
行く途中、こちらが歩いているところより一段下の畑で作業をしている人がいて、Vさんが挨拶をしていた。私も挨拶をし、
「ウザシュ・ヒクウォール・フナク・ホーイシュ・ツァラム」
と言った(「私はワヒー語を話したい」、と言ったつもり)。
ワヒー語は昨日や一昨日も、簡単な表現(「クルグ=ありがとう」、「ガフチ・バフ=素晴らしい」、「ジュ・ノンギ・〜=私の名前は〜」等)くらいは使ったはずだが、緊張していたのか、具体的に使ったという記憶が思い出せない(帰国直後の時点で既に思い出せていなかったと思う)。この「私はワヒー語を話したい」が、具体的に思い出せる中では最初の現地でワヒー語を話した記憶である。
畑の脇の、きれいな水の流れる用水路を渡り、小高いところに登ると、シトハルヴの村と畑、谷の向こうのアフガニスタン側がよく見えた。こちら側よりずっと小さいが、アフガニスタン側にも集落が見えた。
小高い場所はVさんの一族のお墓になっていた。墓石には名前、生年と没年、写真が刻まれていた。生没年を見てみると、長寿を全うした人もいる一方で、若くして亡くなっている人も多かった。この地での生活の厳しさを感じた。いくつかのお墓の前でVさんは「もう亡くなってから何年にもなる」と半分独り言のように言った。
後に、もう少し低い場所にある、より古い時代のお墓にも立ち寄ったが、そちらになると誰のお墓なのかVさんにもわからないとのことだった。
谷
いったん家まで戻って、今度は東側へと向かった。
牛がところどころ歩いている小さな広めの谷に入り、しばらく上流側に向かうと下に小川の流れている小屋があった。中を見せてもらうと、下の小川を動力とする石臼が回っていて麦(?)を挽いていた。現役の水力石臼を見たのは、多分初めてだと思う。
谷の奥の山に入るところまで行くと、岩のひとつにアラビア文字で何かが書いてあった。何が書いてあるのか、意味のある何かなのかどうかは不明だった。
パミールの伝説
家まで戻り、Vさんに「Legends of the Pamirs」という小さな冊子を見せてもらった。パミール各地の伝説をまとめたもので、Vさんは著者にも会ったことがあるといい、一緒に写真も撮ったが紛失してしまったとのことだった。
家の中や、庭の床付きの簡易な東屋的なところを行き来しつつ、「Legends of the Pamirs」を読んでみた。内容は、人類の創造から、シーア派初代イマームのアリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラーの夫妻によるワハーン遠征の話、ポルシネフでのナーセル・ホスローの話など、いろいろな話が入っていて、いくつかを読んでみた。
イマーム・アリーとファーティマ・ザフラーのワハーン遠征は、初めて目にする物語だった。ワハーン谷の観光地のひとつとして有名なビービー・フォーティマ温泉の名前も、ファーティマ・ザフラーに由来するという。
イマーム・アリーとファーティマ・ザフラーが実際にワハーンに来たということは、まず無いだろう(後にVさんからも、あくまで伝説であって二人がワハーンに来たはずが無い、という話を聞くことになる)。これらは原型となる別の話があり、それが語り継がれていくにつれアリーとファーティマの物語に変わっていったのかもしれない。
「元々はファーティマ朝からアリーという名前のイスマーイール派の使者か宣教師かが来た話だったのが、後にイマーム・アリーとファーティマ・ザフラーが来た話になったのではないか」と何となく思った。
冊子は、中央を大きめのホッチキスの針的なもので止めた簡易的なものだったが、そのホッチキスの針が劣化していて、真ん中の何ページかが抜けていた。後ほど、どこかでこの冊子を入手できないかとネットで検索したところ、pdfが見つかり、Vさんにもそのpdfを伝えた。
(※「Legends of the Pamirs」のpdfはこちらのページでダウンロード可能)。
かくれんぼとワヒー語会話
庭の先のトイレに行こうとすると、遠くから一人の男の子がこちらを眺めているのに気付いた。トイレを覗かれはしないかと少し不安に思ったが、そのようなことは無かった。
一方で、庭に戻ってからは、塀の陰からこちらを覗いたり、私の寝転んでいる東屋的なところの床の下にもぐって下からこちらを覗いたりと、ちょくちょくちょっかいを出してきた。
私も、塀の陰に隠れたり、隠れたと見せかけてパッと出てきたり、隠れたと見せかけて塀の上から覗き込んだりと、こちらとあちらとでかくれんぼ的なことをした。最初は一人だと思っていた男の子は、実際には二人いて、双子のようだった。
やがてVさんが来ると、二人の男の子は庭に出てきた。二人はVさんの親戚の子供とのことだった。
男の子の一人に
「ティ・ノンギ・チーズ?(君の名前は何?)」
とワヒー語で聞いた。男の子はちょっと恥ずかしそうな笑顔で
「ジュ・ノンギ・…(僕の名前は…)」
で答えた。もう一人の男の子にも
「ティ・ノンギ・チーズ?(君の名前は何?)」
と聞くと、その子もちょっと恥ずかしそうな笑顔で
「ジュ・ノンギ・…(僕の名前は…)」
と答えた。
二人の男の子はZ君、S君といい、兄弟でペルシア語で韻を踏んだ立派な名前だった。
「ティ・ノンギ・チーズ?(あなたの名前は何?)」
Vさんに促され、男の子が私に名前を聞いた。
「ジュ・ノンギ・…(私の名前は…)」
私も自分の名前を言った。
名前を聞いただけとはいえ、初めて会った子供たちとワヒー語で双方向のコミュニケーションをすることができた。
今回のタジキスタン・パミール旅行の主な目的のひとつは、ワハーンに行って現地の人とワヒー語で話をすることだった。とはいえ、私のワヒー語力は極めて乏しく、そもそも言語にかかわらず対人コミュニケーション自体に苦手意識を持っている。日本を出発する前は、ひょっとしたらワヒー語を一言も話せないままになってしまうのではないか、という気もしていた。それだけに、Z君、S君とワヒー語でコミュニケーションが取れたのはとても嬉しかった。
Vさんによると、Z君とS君は両親を既に失っていて、今は親戚の家に住んでいるとのことだった。この地での生活の厳しさを改めて感じた。
出発
午後もだいぶ経ってから、ムルガブ方面に向け出発することになった。シトハルヴからムルガブに行き、そこからホログに戻るまでを、4000ソモニで送ってもらえることになった。私にとって安くない値段だが、距離と日数とお客が私一人ということを考えると安い値段かもしれない。
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