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タジキスタン・パミール再訪記16 〜イシュカシム→ワハーン谷〜

ワハーン谷(ワハーン回廊)の入り口にあたるイシュカシム(イシュコシム)の町では、友人の友人Vさんに無事会うことができた。この日は、ワハーン谷のVさん宅まで行くことになる。


イシュカシム→ワハーン谷

車の乗客はイシュカシムでだいぶ降りたので(車内は、運転手のWさん、助手席の病気のおじいさん、Vさん、私と、他に1〜2人いたか?)、窓の外を無理な姿勢をせずに見ることができるようになった。

イシュカシムとワハーン

イシュカシムを出発してからは、多分ここがリン村、というところを通過し、ワハーン谷を東へと進んだ。リン村はイシュカシム語が話されている村である。

イシュカシムとワハーン谷は、タジキスタン側では行政区画としてはどちらもイシュカシム地区(イシュコシム地区)の一部となっており、ワハーンという地名はイシュカシムの下位区分と言える。一方、イシュカシム地区の言語はワヒー語(ワハーン語)が主で、イシュカシム語はリン村などごく一部でのみ話されている。地名と言語名とで大小関係が逆だな、と何となく思った。

なお、国境を挟んだアフガニスタン側のワハーン地区は、パンジ川でタジキスタンと、背後の山(ヒンドゥークシュ山脈)でパキスタンと国境を接する、狭いところで幅数キロの細長い回廊状になっており、ワハーン回廊と呼ばれている。

「ワハーン回廊」という言葉は、本来はこのアフガニスタン側ワハーンを指すが、外国人旅行者の間ではタジキスタン側ワハーン谷もワハーン回廊と呼ぶことが多々あるようである。

タジキスタン側も、人が動けるのは谷沿いの道がほぼ唯一で、ホログ〜ムルガブ間のパミール・ハイウェイのメインルートに対してワハーン谷を通るルートは回廊状になっており、その意味でもタジキスタン側もワハーン回廊と言って良いかもしれない。

イシュカシムの町を発ち、ワハーン谷を東へと進む。記録によると時刻は午後4時過ぎ。

ワハーン谷の光景

ここまでのパミールが「険しい山に囲まれた平地の少ない場所」という印象だったのに対し、ワハーンは広々とした谷という印象で、かなり雰囲気が違っていた。畑も、広がっているところでは広々と広がっている。国境のパンジ川もかなり小さな川になっている。一方、アフガニスタン側はこれまでよりもずっと人の気配が少なくなったように感じられた。

村々を通過していると、ワハーン風の紫色系で全体に刺繍のあるパミール帽をかぶっているおじいさんが座っているのを見かけたりもし、ワハーンに来たんだなという実感が湧いた。

ワハーン谷の光景。奥のアフガニスタン側では、山の合間の谷の出口に扇状地が広がっていた。
電柱と国境のパンジ川
何かの電気関係の施設(変電器?)
奥はアフガニスタン側の扇状地。手前のタジキスタン側には木々と家があるが、アフガニスタン側には家のある気配も道のある気配も植生がある気配もしない。
もう少し進んだ場所。アフガニスタン側にも畑や家が見えた。
さらにもう少し進んだ場所。広い谷底をパンジ川が網の目状に枝分かれして流れている。自分的にはこれが「ザ・ワハーン」というイメージであり、地形面でワハーンに来たという実感が湧いた。奥に見える山は、本稿執筆中に地図で調べたところ、カール・マルクス峰(6,726m)という山の模様。
ワハーン谷の光景。日がだいぶ傾いてきた。

夕食

今日の目的地は、ワハーン谷のシトハルヴ村という村である。Vさんはこの村の出身である。

目的地の少し手前(だと後に知ることになる)で、メインの道からパンジ川側に折れて車が辛うじて通れるような道に入り、少し下ったところにある家の前に停まった。病気のおじいさんもこの家に留まったと思う(この家のおじいさんだったのだろうか?)。

家の中に入り、食事をご馳走になった。壁の上のほうには、今よりかなり若いアーガー・ハーン四世殿下が、ご夫人と思しき女性と写っている写真が掛けてあった(当時のご夫人のサリーマ妃? この時は一家の女性はザフラー王女の名前しか知らず、血縁関係もあまりよくわかっていなかった)。柱にかけてあった時計は、タジキスタンの標準時から1時間ずれているようだった。

夕食をいただいた家の近くにて(夕食中の写真は撮ってなかった…)

Vさん宅にて

食事をいただいた家を、その家の方との別れを惜しみつつ後にし、メインの通りを少し進んで山側の道に入り、山をそれなりに登ったところで自動車を降りた。Vさんの家はもう少し登ったところにあり、Vさんがスーツケースを運んでくれた。

Vさん宅近くにて。夕暮れが迫っていた。
向かいのアフガニスタン側には大きな扇状地が広がっていた。右奥の山頂が日に照らされて白く光っている山は、本稿執筆中に地図で調べたところ、ウルグント山というアフガニスタン・パキスタン国境の山の模様。

パミール・ハウス

Vさんの家(厳密にはVさんのお母さんの家)は、いわゆるパミール・ハウスで、かなり広い。玄関を入って部屋をひとつ抜けたところが、天井にパミール・ハウスの象徴とも言える四角形の窓のあるメインルームとなっていた。

部屋の中にある5つの柱のうち、一番奥の柱にアーガー・ハーン四世殿下の比較的最近と思われるよく見かける姿の大きな写真が掲げてあった。人の座れる場所は、メインの部屋もその手前の部屋も絨毯に囲まれていた。メインルームの入口の2つの柱の間の鴨居的なところには、家族の写真とともに、中央に大きな擬人的なウサギのぬいぐるみが置いてあった。後でVさんにあのウサギは誰なのか訊くと、妹さんのものとのことだった。

夕食その2

お母さんが食事を用意してくれ、Vさん、Wさんと3人で食事をしつつ雑談をした。ただし私はさっき食べたばかりなのであまり食べられなかった。申し訳ない……

Wさんは、本名のほかにKというロシア語名も持っているとのことだった。運転手をしているので、ロシア人等の外国人観光客向けの名前なのかな、と思ったが(宮脇俊三のサイパンかどこかの旅行記で、現地の運転手が日本語名を名乗っていたという話があったのを思い出した)、翌日親戚からもロシア語名のKで呼ばれているのを目撃することになる。

Vさんとはパミール・ハウスについても話した。昨年、ホログでRさんの家に行った時に見たのと構造は同じだが、Rさんの家では入口の横の柱が「王(シャー)の柱」でムハンマドを象徴しており、そこに殿下の写真も架けてあった、と話すと、その通り、シュグナーン(ホログ周辺)とワハーンとでは、家の構造は同じだが、柱の預言者一家との対応は異なっている、とのことだった。ムハンマドに対応する柱を「シャーの柱」と呼ぶのもシュグナーンの風習で、ワハーンではそのような呼称は無いとのことだった。

Vさんと記念写真
Wさんと記念撮影

パミールの布団

夜は布団を用意してもらってそこで寝た。パミールでは日本と同様に布団を使うとの話は、私がパミールに興味を持つきっかけになったBさん(パミール出身で日本滞在歴もある)から聞いていたが、実際にパミールで布団で寝るのは初めてだった。

パミールの布団。思ったより日本の布団っぽく、まさに布団だった。

ムルガブへの道(by Google Map)

明日はムルガブ方面に向かう予定である。

今回の旅行前、Gさんにワハーンからムルガブに直接行けるか聞いたところ、今の季節は難しいのではないか、とのことだったので、いったんホログに戻ってからムルガブ方面に行くというのも選択肢だった。その後、Vさんに改めて聞いてみたところ、今季に車が通った実績もあり直接行けるようだ、ということになった。

現在地からムルガブまでどのくらい時間がかかるのか、布団の中で参考程度にGoogle Mapで調べてみることにした。

Google Mapが示したのは、ホログ経由の道だった。

ワハーンからムルガブに直接行く道に問題があるのか、と思ったが、出発地をワハーンの一番奥のランガルにすると、ムルガブに直接行くルートが案内される。一方で現在地からランガルまで行く道がホログ経由になる。いろいろ径路を調べてみたところ、シトハルヴ→ランガル間にGoogle Map上のバグ(?)で、道がかぶっているが繋がっていない箇所があり、そこが通れないことになってしまっているようだった。

シトハルヴ〜ランガル間の某所を出発地、その数十メートル先を目的地としてGoogle先生に経路を聞いた結果。ものすごく大回りのルートとなった。なお、上記地図上で現在地の南西にあるLangarはアフガニスタン側の村で、タジキスタン側のLangarは現在地よりずっと東にある(後に知った話によると、Langarという地名はこのあたりではあちこちにあるらしい)。
問題の分断箇所。道路は重なっているが、繋がっていないことになってしまっている模様。なお、本稿執筆中に改めてGoogle Mapで経路を調べてみいたところ、この問題は解消されていた。

(続き)

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