見出し画像

パミール旅行記8 〜パミール・ハイウェイ後編 アフガン国境→ホログ到着〜

タジキスタンの首都ドゥシャンベから一路ホログを目指して出発した我々の車は、ついにアフガニスタン国境まで到達した。パミール・ハイウェイの本番はここからである。

(前回の話および記事一覧)

アフガニスタン国境を行く

我々の乗合タクシーは谷の底部まで降り、アフガニスタンとの国境になるパンジ川沿いをひたすら走った。車道はしばらくは片側1車線の道で、車は順調に飛ばしていた。

アフガニスタン国境へ向かって谷を降りていく(※ただしこの写真の正面はタジキスタン)。途中の直線区間に何故か横転したトラックがあった。
もうすぐ谷の底部。川は国境となっているパンジ川で、その向こうはアフガニスタン。
谷の底部に到着するあたりで停まっている車があった。改めて写真を見てみるとタイヤを交換している模様。

しばらく行くと、山際が迫って険しめの道になったが、その後は再び片側一車線に歩道もついた新しめの道になり、車は順調に飛ばしていた。パミールに行く道は相当な悪路だと聞いていたが、道は思ったより整備されている気がした。これがそのまま続くのか、それともこの先は悪路になるのか、個人的には微妙に後者を期待していた。

パンジ川の対岸のアフガニスタン側にも道が一本通っていた。時々対向車のあるタジキスタン側に対して、アフガニスタン側では車も通行人もほとんど見かけなかったが、こちら(タジキスタン)側の道がかなり高い位置を走っている時、はるか下のアフガニスタン側の道に白い車が一台走っているのが見えた。これがアフガニスタン側で初めて見た人の気配だった。

パンジ川沿いをしばらく進むと、やや険しめの道になってきた
やや険しめの道

検問?

ゴルノ・バダフシャン州との境界には、検問のようなものは無かったようで、ふと今はどこだろうと思ってGoogle Mapを調べてみると、既にゴルノ・バダフシャン州に入ってしばらく経っていた。

パンジ川沿いの道をかなり走ったところで、検問のような場所があった。実際に検問だったのかどうかは不明だが、我々は車から降り、パンジ川の流れとその向こうのアフガニスタンを眺めた。同乗のお兄さんの一人が「川の向こうはアフガニスタンだ」と教えてくれたが、私が「知っている」と答えると、「何だ、そうなのか」という雰囲気になってしまった。

この場所にはトイレもあったが、この時は行かなかった。ここに限らず、アフガニスタンとの国教沿いになってからのパミール・ハイウェイには道沿いにやたらとトイレが多くある気がした。アフガニスタンとの国境に来る前はあった記憶が無いが、実際に無かったのか、あったけどこちらが気づかなかっただけなのかは不明である。

検問はこの後、ルシャン地区との境界と思しきところ(ルシャンの中心地からはものすごく手前)と、シュグナン地区との境界と思しきところの2箇所だけだったと思う。

パンジ川の濁流と対岸のアフガニスタン側の道
タジキスタン側の道。新しめの広い道路になっている区間もあった。
アフガニスタン側の村
国境のパンジ川の眺め

給油休憩

車はやや大きめの集落でガソリンスタンドに入り、給油を行った。乗客の我々もトイレに行ったり、売店で飲み物を買ったりした。売店のおばさんからジュースを購入し、シュグニー語で「クルグ(ありがとう)」と言って店を出たところで、このあたりは確かまだタジク語圏だったということに気付いた。おばさんにはシュグニー語の「クルグ」が普通に通じていたような気がした。

売店のおばさんがシュグニー語話者、あるいはある程度以上のシュグニー語の運用能力があるのか、お客の中にはパミール人も多いだろうから「クルグ」くらい通じるのか、本当は通じてなかったけど雰囲気で意図は通じていたのかは不明である。

ホログまでのパミール・ハイウェイ沿いの言語・宗派は、ここからもうしばらくはタジク語・スンナ派圏で、その先は宗派はスンナ派で言語はパミール系のヤズグリャム語圏となり、さらにその先はイスマーイール派でパミール系言語のルシャン語圏(ルシャン地区)、シュグニー語圏(ホログおよびシュグナン地区)と続く。国境を挟んだアフガニスタン側の言語・宗派事情も、概ね同じであるはずだが、どこかで見た古い言語地図ではこのあたりにパシュト―語の飛び地もあったりした。アフガニスタン側の現在の実際の言語状況はどのようになっているのだろうか?

車の出発を車外で待っていると、同乗のお兄さんに「これからオフロードになる、知っているか」と言われ、インターネットで見た、と答えた。

タジキスタン側の片道一車線道路。奥のアフガニスタン側には、山をジグザグに登っていく道路が見える。

対岸のタリバン

道はやがてオフロードになり、アフガニスタン側の道と似たような感じになった。電線があるのがアフガニスタン側との違い、とインターネットで見ていたが、確かに気をつけていないと気づかない程度の電線がこちら側にはあった。

アフガニスタン側の道は、絶壁の上や下を通っていた。対岸から見ると、ものすごい場所を走っているな、と思うところがいくつもあったが、おそらく向こう側から見るとこちら側もそうなのだろう。周囲の山々は非常に高くそびえている。

片道1車線の舗装道路だった頃は、道路の通行量はかなり少ないように感じたが、砂利道になってからはやたらと大型のトラックとすれ違うようになった気がする。アフガニスタン側は相変わらず交通量が非常に少なかったが、稀に車や車両的なものを見かけた。

パンジ川の両側に緑と家々が見える。
パンジ川対岸のアフガニスタン側の村を望む。一番間近に見えるアフガニスタン側の村はここだったか?
上記写真の箇所ではタジキスタン側も村になっていた。タジキスタン側の様子。

タリバンの旗

国境のパンジ川には、橋もいくつかかかっていた。1つ目か2つ目の橋の近くを通ったところで、橋のタジキスタン側にはタジキスタンの国旗が、アフガニスタン側にはタリバンの旗が掲げてあるのに気付いた。

タジキスタンのゴルノ・バダフシャン自治州の対岸にあたるアフガニスタン側のバダフシャン州は、元々はアメリカ同時テロ前の旧タリバン政権時代には反タリバン派の拠点のひとつとなっており、一度もタリバンの支配を受けていなかった場所であった。

しかし、今回の旅のちょうど一年ほど前、タリバンがアフガニスタン各地を制圧し、親米のイスラム共和国政権(ガニ政権)が崩壊していく中で、バダフシャン州も他の州と同様にあっさりと陥落しタリバンの支配下になった。もし旅をするのが一年早かったら(コロナ規制で困難だっただろうが)、行きと帰りでアフガニスタン側の旗が変わっていたかもしれない。

国境の橋。写真では確認困難だがアフガニスタン側(右側)にはタリバンの旗が掲げてある。

タリバンの車

パンジ川の湾曲しているところで、我々の車は小休憩をした。こちら側の道には、果たしてこれがこの道を通れるのだろうかと思うような大きなトラックが通っている。

ふと対岸のアフガニスタン側を見ると、ジープのような車が一台走っているのが見えた。何人かの人を乗せ、タリバンの旗と思しき白い旗をはためかせている。

同乗者のお兄さんがシュグニー語風の発音で「トーレブェーン」とつぶやいた。

多民族国家アフガニスタンの混乱については、大きな要因のひとつとして部族主義があるとされている。タリバンもまた、アフガニスタン最大の民族であるスンナ派パシュトゥーン人を中心とした部族主義色の強い組織だとされている。タリバンの評判は、伝統色の濃い農村部のパシュトゥーン人からは悪くないようである。しかし一方で、スンナ派パシュトゥーン人でも都市部の部族主義に囚われていない人や、農村部でスンナ派でも民族の違うタジク人、さらに民族も宗派も違うハザラ人やパミール人にとっては、タリバンの支配下というものは安心して暮らせる環境では無いだろう。

アフガニスタンの全ての人々が平和に暮らせることを願いたい。

国境のパンジ川。タジキスタン側の砂利道をトラックが行く。タジキスタン側も砂利道がメインになってきた。
牛がいた
小休憩中。パンジ川の下流側を振り返る。このあたりで対岸をタリバンの車が通った。

車内にて

車内では、「ドゥース・ドゥース」(少し)が相変わらず流行語だった。

走行中は車内では音楽を流していることが多く、タジク語(またはアフガン・ペルシア語?)、シュグニー語、ロシア語の音楽が流れていた。タジキスタンやアフガニスタンの音楽は日本でもちょくちょく聴いており、何となく聞き覚えのある声の歌もあるような気がしたが、具体的に誰のどの歌だというのが分かるものは無かった。ロシア語は、私の知っている中ではMakSimの「Ветром стать」と「Трудный возраст」が流れていた気がする。

音楽の流れていない時、運転手のおじさんは時としてシュグニー語で詩のように何かを語り、それに乗客のお兄さんがちょくちょく拍手をしていた。私のシュグニー語力では、例によって代名詞を中心に時々単語が拾える程度で、内容の把握までにはまだまだ壁が多そうだった。

パンジ川沿いのな眺め
だいぶ日が傾いてきた。アフガニスタン側の河原に人影が見える。アフガニスタン側では、村々でもあまり人影を見ない気がした。
アフガニスタン側の村を右目に、タジキスタン側の割と絶壁気味の道を行く。この区間を走っている時の動画に、やたら印象に残る歌が入っていた。後に判明したところによるとMadina Aknazarovaの「Ба армон рафтам」という歌だった。歌詞を見るまで気付かなかったが、今回の目的地の「ホログ」も歌詞の中に出てきている。Madina Aknazarovaは私がタジキスタンの音楽に興味を持ち始めて最初に知った歌手の一人だが、実は両親がシュグナーン出身のパミール人ということをずいぶん後になって(確か今回の旅の数ヶ月前くらいに)知った。
夕刻のパンジ川。アフガニスタン側はかなり急な傾斜。
パンジ川の濁流とは対象的な白い水の流れが印象的だったアフガニスタン側の小川
我々の車
道端の湧水で水分補給(但し私は飲まなかった)

渋滞

日もだいぶ傾きかけてきた頃、車が渋滞で止まってしまった。前方で何か問題が起こっているようである。交通事故か、自然災害か、あるいは5月の件もあるので政治絡みの何かの規制か。

車から降り、すぐ横の斜面を少し登って渋滞の様子を眺めた。他の車の乗客も、車から降りて電話をしたり、そこらへんにしゃがんだり、斜面を登って様子を伺ったりしている。

ふと、対岸のアフガニスタン側の道を一台のオートバイが軽快に通り過ぎていくのが見えた。あちらのバイクの人は、何を考えながらこちらの渋滞を見ているのだろうか。

渋滞に遭遇
少し高い場所から
渋滞解消を待つ人々

トラックとのすれ違い

前方からは、トラックが一台、向こう行きの止まっている車列の横をゆっくりと進んできていた。かなり通るのに苦労しているようで、渋滞の原因の一部になっているようだった。

トラックが通過した先も向こう行きの車は詰まっているようなので、渋滞の主な原因はこのトラック以外の何かだと思われるが、この渋滞の原因は単純に交通関係の何かのように思われた。

件のトラックは、我々のすぐ近くで再度止まった。我々のすぐ後ろの向こう行きのトラックが道の半分以上を占拠していたために止まったものと思われる。かなり長いことそのまま止まっていたが、やがて我々の車が少し前の空いているスペースに行き、後ろのトラックが道の横のほうにどうにか移動することで、こちら向きのトラックが通過できるようになった。

中国人の青年

待ち時間の間、別の車に乗っていた中国人の青年と英語で少し話をした。中央アジアをいろいろと旅行しているとのことだった。他の乗客は、私がその青年と知り合いだと思っていたようだった。そして、私が何度か知り合いではないと言った後も、引き続き知り合いだと思い続けていたようだった。

車が動き出した頃にはかなり薄暗くなっていたが、まもなく日没になった。

しばらく走ると、タイヤが宙に浮きコンテナが後ろにずり落ちているトラックがあり、そのトラックの横の狭い空間を通って前へと進んだ。このトラックが渋滞の主要因だったのだろう。後続のトラックは果たしてここを通過できるのか気になった。

渋滞解消待ち中。かなり暗くなってきた。

夜のパミール・ハイウェイ

周囲は完全に日没となったが、月が明るいようで、山々の形は暗くなってからも容易に確認することができた。後に、ほぼ満月の月が出ているのも見ることができた。

対岸のアフガニスタン側の村に、家々の電灯と思しき明かりが灯っているのが見えた。幻想的なようでもあり日常的なようでもある光景だった。アフガニスタン側には送電線は見当たらなかったが、電源はどのように取っているのだろうか。

月明かりで照らされる山。肉眼だともう少しよく見えたと思う。

カフェにて

夜も更けてきたところで一軒のカフェに入り、夕食的な食事をした。

出てきたのはパンと飲み物。同乗のお兄さんが「シールチョーイ」と言っていて、最初は何か分からなかったが、程なく「シール」=「牛乳」、「チョーイ」=「お茶」ということに気付き、飲み物がミルクティーだと分かった。毎晩シールチョーイを飲むのが良いとのことなので、シールチョーイをいただいた。シールチョーイは日本(あるいはパミール以外)で口にするミルクティーとは違う、独特の味がした。

件の別の車の中国人の青年とその同乗者も、カフェに入ってきた。同乗者が席でくつろいでいる中、青年氏はカフェの中や外をしばらくうろうろしていたが、最終的には彼の同乗者と同じテーブルで食事の席についた。

青年氏はタジク語でコミュニケーションを取ろうとしていたようで、翻訳ソフトでタジク語(?)の発音を確認し、他の人に話しかけていた。すると、誰かが私を指して「こっちの兄ちゃんはパミール語が話せるぞ」と言い、青年氏は少し驚いた様子でこちらを見た。皆がパミール語(シュグニー語)で話している中、現地語の準備はおそらくタジク語だけであろう青年氏は多少疎外感を感じてしまっているように見えた。

ともあれ、シールチョーイにパンを浸して食べ、夕食とした。

タイヤ交換

夜の道を走っていると、不意に車が止まった。他の乗客が降りたので私も車を降りた。周囲は月明かりで照らされており、車のすぐ横には何かの建物があった。

タイヤに何か問題が発生したのか、運転手のおじさんはジャッキで車体を持ち上げ、タイヤの交換作業に入った。

後続の車が横に止まり、何か必要かと聞いてきた。運転手のおじさんは不要と答え、その車は出発した。

やがて、タイヤの交換作業は完了し、我々の車も出発した。

ホログ到着

そこから先も、ホログまではかなり時間がかかった。

ホログでは泊まろうと目星をつけていた宿があったが、運転手のおじさんは知らないと言い、私もスマホがインターネットにつながらず連絡先が取得できなかった。

ホログ手前の村

ホログに入る手前の村で、同乗の少女二人とお兄さんのうちの一人が下車した。

別れ際、二人の少女のうちタジク服の少女が私に、自分たちは私がドゥシャンベでお世話になったAさんの知り合い(ご近所さん)だと英語で言った。どうも、タジク服の少女氏は最初から私のことを知っていたようである。

少女たちとお兄さんとの別れを惜しみつつ、車はホログに向けて出発した。道の横の石垣が町の雰囲気を感じさせるものとなり、ホログの町がもうすぐであることを感じさせた。

やがて車はホログの町と思しき場所に到着した。

ホログにて 〜宿とカフェ〜

ホログでは、運転手さんに勧められたホステル(一泊80ソモニ)に滞在することになった。時刻は午前1時37分頃。ドゥシャンベからはおおよそ17時間ほどの、おそらく標準より長めの旅だった。

ホステルの部屋は道路側だった。ホステルの前に24時間営業のカフェがあるのが部屋の窓からも見えたので、そこに飲み物を買いに行くことにした。

カフェの中では、何人かの地元人と思しき青年が音楽に合わせて踊っており、店の制服を着たお姉さんたちが周囲で片付け等の作業をしていた。カフェの中に入ると、青年たちが「一緒に踊ろう」と手招きしてきたので、私もしばらく踊り、それから彼らに別れを告げてカウンターの店員のお姉さんのところに行った。

店員のお姉さんは満身の笑み(?)でこちらを見ていた。

「パヒヒェート、タマンド・ヒャツ・ヤストー?(すみません、お水ありますか?)」

お姉さんにシュグニー語で話しかけると、お姉さんはスタスタとミネラルウォーターを持ってきて差し出した。

「ツェーンド・ソェーム?(いくらですか?)」

「ツァヴォール!(4!)」

値段を聞くと、お姉さんはかなりの早口で答えた。私はポケットから4ソモニを取り出してお姉さんに渡し、ミネラルウォーターを受け取った。

「クルグ!(ありがとうございます!)」

常に満身の笑みのお姉さんに私はお礼を言った。ホログでの初のシュグニー語会話実践。無事通じてうれしかった。

宿ではシャワーを浴び、それから就寝した。明日は、私にパミールについて教えてくれたBさんの妹のGさんに会える予定である。

(続き)


サポートをいただけるととても励みになります! 頂いたサポートで、外国語に触れる旅に出かけます!