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舞台・エフブンノイチ

開演のブザーだ。
緞帳が上がる。
観客の頭が、あちらこちらで動いているのがわかる。これが映画だったら、カメラが映すわたしの瞳は揺れているだろうか。まばたきを、ゆるしてほしい。ステージに立った時の照明は異様にまぶしいのだ。早朝3時のような暗濃色の観客席、対してこちらは真夏の炎天下のような明るさ、コントラストが強すぎる。何度経験しても慣れない。だからいつも緊張する。これは、演者にしかわからない。

舞台の真ん中には、思わせぶりに突っ立つわたしがいる。
両腕をゆっくり上げていく。1秒間に数センチメートルという動きで、ちょっと上げたと思うと、少し下がる。ゆらぐ。腕がゆらぐ。わたしはゆらぐ。そよぐ。ゆらぐ。

演目はステージの真ん中でわたしがそよかぜのように揺れるだけだ。ほとんど真ん中から動かない。衣装も地味だ。ユニクロのジョガーパンツに半袖の無地のカットソー。メイクもしない。不要だ。そんなもの。
セットも置かない、すっぱだかの舞台。
チケット完売。ロングラン公演。わたしの一人舞台がなぜ評判なのか、本当の理由がわかる者はわたし以外にいない。

木を、模倣している。
知っているだろうか。あの模様を。自宅にある木を、見て欲しい。床や、ドアや、家具。まあ今となっては、模造品の印刷物の木ばかりだろう。出来れば天然のものが良いのだが、最悪そういう模造品でも良い。工業製品の木の模様だって、天然の木を参考にして作られている。
木の断面の模様はゆらいでいる。
わたしはそれを真似ているだけだ。なぜって、好きだからだ。美しいからだ。癒されるからだ。それを誰かにお裾分けしたかったからこの舞踏を始めた。路上ライブから始めた。次第に評判になっていったのだ。
木は、ひとつとして同じ模様はない。だから私は間違えても良い。どんな動きをしても構わない。小さな節で動きを止める。照りがあれば、跳ねる。オークの虎斑(とらふ)があると身をよじる。チェリーのガムポケットがあれば目を見開く。木々それぞれの特徴を細やかに表現することで、私の舞踏に緩急が生まれる。
多彩な木の意匠をわたしが知っているのは、人間が勝手に切り刻んだ木々の犠牲があってこそ。
木を切り、割って、断面を空気に晒さなければ、木々のゆらぎを、わたしが知ることはなかっただろう。
水や栄養分を運ぶ無数の孔。ひとつとして同じ形はない。孔がつらなりできた紋様、わたしはそれらをなぞるだけ。

観客は喜ぶ。
わたしが木を模倣することはすなわち人にとって心地のよいゆらぎを感じさせる。
わたしの舞台を見た観客たちは座席の背もたれでうっとりとしている。船をこぐ人がいる。いびきをかく人がいる。微笑む人がいる。しかめつらの人がいる。おもしろいので、わたしは観客を見て笑う。年輪のカーブに思い馳せ、口角を上げる。
それから、ときどき、ゆれる人がいる。わたしと一緒に、ゆれたい人がいる。
ゆれる人はだんだん増えていく、みんなばらばらにゆれる、ゆれる、座席もいっしょに、ゆれる、ゆれる、会場も一緒に、ゆらり、ゆらり、みんなでいっしょに、ゆらありゆらり、あーああーあ、のどもゆれる、おーおあーあ、声がゆれる、あーお、おーあ、おーあ、あーお、緞帳が降りるまで、わたしたちは、汗みずく、ゆらぎ、ゆれて、気持ちよく、木のリズムにゆれる、ゆれる。

チケットは手に入りましたか?
大人気ですからね。
どうぞご覧ください。
拍手はいりません。ゆれましょう、いっしょに。

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