見出し画像

村上春樹は好きだし、蟹は嫌いだ

Xでノーベル文学賞恒例の村上春樹が話題になっている。

事の発端は下記のツイートのようだ。

「村上春樹キモい」と言いづらい空気は感じたことがないし、むしろ文学オタクに村上春樹好きと言うと馬鹿にされるような空気をずーっと感じていたが、今回書きたいことはそこではない。

いちおう僕のスタンスを話しておくと、村上春樹は好きだ。20歳のころに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んで衝撃を受けた。2つの世界で物語が淡々と進んでいき、徐々に交わって行く不思議な感覚。そもそも小説をあまり読まなかった当時の僕には衝撃的な体験だった。

最近は小説はあまり読まなくなってしまったが『辺境・近境』や『職業としての小説家』などの旅行記、エッセイは今も定期的に読んでいる。

この方も決して読まず嫌いをしているわけではなく、村上春樹のエッセイなどは面白かったが小説(というより『ノルウェイの森』)はキモかった、というスタンスらしい。

僕が興味を持ったのは、このツイートに対したくさんの村上春樹ファンがリポスト・引用していて、そのどれもが「いや、村上春樹はキモいだろ!」と訴えていることだ。

この方は以前からキモいと感じていたが、周囲にファンも多いため言いづらかったという。好きな人に「村上春樹ってキモいですよね」と言えない気持ちはとても分かる。
興味深いのは、多くのファンもこの方と同様に「村上春樹キモい」と思っていたことだ。僕はこの一連の流れを見て、人との関わりの難しさと底知れない虚しさを感じた。

話はガラッと変わるが、僕は蟹が嫌いだ。これを聞いた知人は口を揃えて「えー!あんなに美味しいのにもったいない!」と言う。

「どういうところが美味しい?」と聞いて返ってくるのは「甘味があってプリプリしているから」だ。それを聞いた僕はいつもテキトーに笑って受け流すが、内心少し不満だ。僕が蟹を嫌いな理由も「甘味があってプリプリしているから」だからだ。

蟹好きのみんなは「こいつは蟹の美味しさをわかってねぇ可哀想なやつ!」といった顔をするが、僕も君も感じている味には大差ないはずなんだ。味を分かった上で好みじゃないと言っているんだ、と僕は心の中で叫んでいる。

食の好みでよく聞くフレーズ「本当に美味しい〇〇を食べたら好きになるよ」も同様だ。感じているものがまったく違うという前提に立たなければ出てこない発想だ。もしくはよほど劣悪な物しか食べていない人間として見做している態度だ。
僕が幼少期からカニカマを本物の蟹と騙されていたのならまだしも、同じ国に住む同じ庶民同士、食べてる蟹の質にそこまでの差はないだろう。少なくとも甘みとプリプリ感の度合いは違っても、辛かったりしょっぱかったりすることはないだろう。

蟹と村上春樹の話で感じたのは、人は自分の好物を好まない人に対して「好きじゃないのは魅力を理解していないから」と思ってしまうらしいこと。反対に、相手の好物を自分が好まないときは「この人とは感じ方が違うんだ」と思ってしまう。

実際にはそんなことはなくて、村上春樹が好きな人も嫌いな人も同様に「キモい」と感じ、蟹が好きな人も嫌いな人も同様に「甘くて美味しい」と感じているのだ(さすがに村上春樹に失礼な表現だが、ファンとしては褒め言葉的にキモいを使っているつもりなので許してほしい)。

あのツイートをした方は村上春樹(の小説)を好きになることはないだろうし、僕も蟹を好きになることはおそらくないだろう。
仮にあるとしても「こいつは魅力を理解してないから教えてやろう」と誰かにプレゼンされたときではなく、何か測り得ないキッカケが訪れた時だろう。

この話題で得た気づきは、人は自分の好きな物を好まぬ人に出会ったときの関わり方を改めなければならないということだ。魅力を伝えれば好きになってくれる、なんて可能性は限りなくゼロである。それを理解して接しなければいけない。

話せば分かることもあるが、どれだけ話し合っても分かり合えないこともあるのだ。少なくとも、分かり合えないことを分かった上で人と接するべきだ。

僕は村上春樹は好きだし、蟹は嫌いだ。

いいなと思ったら応援しよう!