産後1ヶ月で起業してマーケティングコンサルタントになるまでの軌跡
初めまして。
元たぺこ社長こと中田あきです☺️今回は、夫婦で会社を辞めてeBayとBUYMAで生計を立てるようになり、その後離婚(2024.10.12)、1人で子どもを育てながらマーケティングコンサルタントになるまでのあらすじやどんな想いで今の仕事を選んだかなど特に有益な情報は一切ない独り言をまとめてみようと思います。笑
現在31歳で1人娘を育てながらコンサルティング事業のみで年商5,000万円ほど。(来年はクライアントさん在籍人数200名、年商規模で1億円ほどを達成予定)ここに辿り着くまで紆余曲折がありました。
子どもがいて在宅で起業したいママや、今どん底で打ちひしがれている方にぜひ読んでほしいです。
私は何回も起業してから無一文になっているんですが(無一文どころか2ヶ月で800万円の負債を抱えたことも)沢山の人に助けていただいて、なんとか今があるんです。
最初にお伝えすると、今あなたの人生がどんなにどん底であっても人生は如何様にも変えられます。
あなたのその手で。
私は、インスタなどで見ると派手で元気な感じに見られるんですが、実はそんなことはなくて、内気だし、どちらかというと皆でワイワイするより1人でいる時間の方が好きだったり、カリスマ性皆無で”THE・普通”なんですよね。
実際はこんな感じです⏬全然キラキラしてないです。
会うと120%言われるのが「あきさん、普通ですね。」という一言。そうなんです、私は普通なんです。自分には特別なカリスマ性はなくて、普通であることがわかっているから、泥臭く再現性高い方法にしか挑戦してこなかったんですよね。
それでは拙い文章ですが、どうぞ読み進めてくださいませ。
第1章 たぺこ社長の幼少期〜高校卒業まで
え、そこから?!と思った方もいるかもしれませんが笑 子供時代って結構大事だなと思ったりするわけです。興味のない方は飛ばしてください😂
大阪で生まれて3兄弟の末っ子として育った私は幼い頃から要領がよく両親や先生に怒られたことはほとんどありませんでした。良いのか悪いのか、反抗期もなかったんです。(適当な反抗期を過ごさなかったので感情のはき出し方が分からないという弊害は感じています。)
父は元々自衛官。その後、敏腕営業マンとしてたくさんの会社から引き抜かれて高給取りでした。(全て3兄弟の教育費に消えました。)愛想の良さは完全に父親譲りだと思います。最終的には大手新聞会社に勤めて、今も健在です。母は私が小学生の時から大手家電メーカーに勤めていて、私からマイルドさを抜いた感じの性格です。顔もそっくりなんですが(母は私より濃くて外国人と間違われます。)不器用なくらいまっすぐで誠実で曲がったことが許せなくて、努力家です。
転勤族だったので、小学1年生の時に大阪から埼玉に引っ越すことになったのですが関西弁で盛大にいじめられました。(今思うといじめではなかったのかも…純粋に関西弁というもの珍しさで注目を集めていただけかもしれません。)当時、話すとどうしても大阪のイントネーションが出てしまうのでなかなか言葉にすることができなくなって、内気になったきっかけだったのかな。
勉強と読書が好きだったので、計算ドリルを配られてから3日で終わらせて休み時間の度に図書館に行って本を1日に何冊も読んでました。唯一友達だったのが、計算ドリル仲間のゆういち君。(ゆういち君はその後東大へ….すごい😭)そこから、運動会の練習をする秋頃に、足が速かったので注目を浴びてようやく話せるようになりました。
運動会を皮切りに自信が徐々に戻ってきて小学2年生から週6日の習い事をこなし、年を重ねる毎に人前に立つことがなぜか多くなってきました。小学校・中学校ともになぜか生徒会長に選ばれて、運動を一番頑張った人に送られる体育賞を受賞し文武両道を常に目指していました。
転校の時を除いては、人間関係で大きく悩んだことはなかったかもしれません。いつも優しい方に囲まれて、必要な時に必要な人が目の前に現れてくれる、そんな人生です。(一種の特技かな?と思っています。ありがたい。)
小学生6年生時には4×100mリレーの選手で埼玉県代表→全国大会出場、山の中を走るクロスカントリーという競技でチームで全国4位、書道で全国大会出場と色々成果を出しました。
期間限定で召集される駅伝部は毎年キャプテンでした。皆を鼓舞するキャプテンというよりかは誰よりも黙々と練習して背中で見せるキャプテンという感じでした。運動会はいつもリレーのアンカーでごぼう抜き🏃でした。良き師にいつも出会えたことで、実力以上の結果を出せました。
ここまで見て、「天才ですね」って思った方は人生損してるかもしれません。
これは私が凡人に生まれたからこそ言えることですが、よっぽどアスリートで世界選手権を目指すなどではない限り(生まれ持った身体的スキルに依存しないジャンルであれば)自分の適性を知り、苦手ではない分野で、「努力の方向性を間違えずに一定の努力量」をこなせば「それなりの結果」にはなります。
例えば私は、短距離・シャトルランのような真っ直ぐ走るだけの競技であればすごく得意だったんですが、ソフトボール投げはすごく苦手で7mくらいが最高記録です。
だから走る競技に特化して努力をひたすら重ねたんですね。
小学4年生のときから中学3年生までずっとマラソン大会で1位だったんですが、小学4年生から始まるバスケットボールの「夜練習」という高学年のみが参加する練習に休まず通ったのがきっかけだったんです。
女子は誰もこなかったので高学年の男の子に1人混じってひたすら走り込みをしていました。
多い時には10km/日で走り込んでました。
普通の人が土日しか練習していない中、私は毎週1回10km走る。
1ヶ月でその差は40km。1年で480kmになります。
だいたい東京から京都へ走っていく距離になりますね。
当たり前に成果が出るわけです。そのほかにも駅伝大会だったり短距離走の練習もあったり、自主的に走ってもいたので成果が出ないとおかしいですよね。
「私は頑張っているのに成果が出ない😢」と思っている人は、「成果を出している人がどれだけの努力をしているのか」を一度可視化してみるとやるべきことが見えてきます。結局、質はある程度のレベルにならないと担保できないので量が大事だと、と私は思ってます。
1回、母親に「なんで皆休んでいるのに私だけ行かなきゃいけないの?」と校門の前で泣き喚いたことがあったんですが、そのまま校門に置いていかれたので練習に行くしかなくあの日をきっかけに「人は人、私は私」という気持ちで、他の人がサボっていようと自分はやるべきことをやる、という意識が根付いた気がします。
小学4年生の女の子を真っ暗な校門前に置いていくには母も勇気がいったと思いますが、すごく感謝しています。
雨の日でも台風でも雪の日でも「何があっても練習にはいく」ということを決めれば迷わず直進できます。
バスケットボールも球技ですが、他の人が絶対に取りに行かないボールをラインギリギリまでいつも追いかけてコートの端から端まで走り回る持久力を武器にしたプレースタイルだったんです。
この考えは今、ビジネスをする上でもすごく大事にしています。
「己を知り敵を知れば百選危うからず」という孫氏の言葉がありますね。
まずは自分の得意不得意を知ることから全ては始まります。
ホロスコープで見てもらったところ、火のグランドトラインを持っているんですよね。なんでも臨めば叶う強い星です。(GACKTと同じ)ちなみに動物占いは「穏やかな狼」です。
今回、このnoteを執筆するにあたり卒業アルバムを久しぶりに開いていたのですが寄せ書きには「マイワールド」「天然」「マイペース」の3つが並んでいました。自分のペースで常に進んでいたいという気持ちは強いのですが、何に対してもこだわりがないので他の人と衝突することはほとんどなかったです。
マイペースではあるのですが、人の気持ちを推測しすぎてしまうところがあり心を開くまでに極端に時間がかかります。(というより本当に心を開ける人がすごく限られているというイメージ。)言いたいことも「言おうかな?どうしようかな?」と悩んでいる間に、3ヶ月くらい経ってしまうこともしばしば。かなり口下手です。血液型はO型よりのA型です。
不器用ではありながら、周りの方々に支えられながらスクスク育ち、高校受験の時にはなぜかやる気スイッチが入っていて、1日10時間くらい勉強をしました。偏差値を3ヶ月くらいで20くらい上げて、無事県内で一番倍率の高い制服がないとても自由な進学校に入学することができました。
私服通学、髪も染めたりピアスも開けたりしながら運動部に所属していました。本当に「自由」を1人1人が体現すると、平和なんだなと感じた3年間でした。
高校在学中にいじめというものを見たことがなかったです。「みんな違ってみんないい」と皆が思っている環境って本当素敵です。
入学当初はずっと続けていたバスケットボール部でインターハイを目指すも、足首の靭帯の手術が必要になり退部しました。(今も足首がプラプラしてます)
勉強は学年で15番くらいでした。英語はずっと好きでベネッセの全国模試で3番になったことがありました。世界史が苦手すぎて29点をとってしまい、人生初めての赤点にワクワクしました。
バスケ部を退部してからは、昼夜逆転の生活を過ごしながら初めてのアルバイトで夢庵に就職。圧倒的に配膳が下手で、お客さまのところにお膳をお届けすることには味噌汁が半分こぼれた状態でお届けしてしまうポンコツぶりでした。
やっぱり何か部活に入りたい!と思いサッカー部のマネージャーになりました。理由は「ルールがわからなくて楽しそうだったから。」です。
散々やってきたバスケットボールや陸上だと自分が試合に出たい!という気持ちになってしまい辛かったので、そこから2年間「歴代最も動けるマネージャー」として、ボール拾いも率先して参戦したり、頑張る選手のもとで楽しい時間を過ごしました。
それなりに青春を謳歌し、大学受験ははなぜか気合が入らず近所の国立大学を目指していたもののフワフワしたまま受験を迎えてしまい、3流大学に入学をしました。高校は唯一塾へいかなかったのですが、この大学受験の結果を受けて自分では管理ができないから、教えてくれる人が必要なのだと強く感じたと同時に、自分をコントロールすることができない弱さを痛感しました。
第2章① がむしゃらに働いた大学生時代前半
なんとなく入った大学で、決して裕福な家庭ではなかったので国立大学に落ちたという申し訳なさもあり、なんとかこの大学に入った意味を見出そうと思い、首席で卒業しようと決意しました。
ちなみに好きな人が先生志望だったからという理由だけで教育学部に入学します。途中まで単位をとっていましたが、「あれ?私縛られるの苦手だったよね?」と気づいて教育学部では珍しく教員免許を一切取らないという決断をしました。
それと同時にできる限りアルバイトをして親へ学費分として支払おうと考えました。アルバイトは色々とやりました。
最低賃金の工場労働から始まり携帯の販売員をやり、スカウトをされそのままその派遣会社専属の販売員となり、そこでもヘッドハンティングをされ他の会社に移転をし・・・高校卒業当初は、9,800円だった日給も1年経つ頃には15,000円になっていました。大学生ながらに関東圏の家電量販店へ毎週末出張に行き、ビジネスホテルに毎週泊まっていました。
私が携帯販売員としてブレイクしたきっかけは、栃木県宇都宮に派遣された時のことでした。外国人の方が店舗にいらっしゃったんです。他の店員は忙しさもあり対応してなかったのですが、とても困っているように見えたのでカタコトの英単語と、翻訳を使いながら話を進めてなんとか契約までいったんですね。
私は「売りたい!」という気持ちよりも異国の地で携帯が欲しいのに誰にも相手にしてもらえないその方が不憫で、「無事買えて良かった〜!」という気持ちでいっぱいになりました。
そしたらなんと、翌日仲間の方を一気に連れてきてくださって15台くらいかな?が私の契約になったんです。全くそんなことを想像していなかったのですが、宇都宮あたりは外国人の方も多かったので近隣店舗に引っ張りだこになりました。ご縁ですね。
ちなみに携帯販売の契約を覚えるまでは、8時間ビックカメラやヨドバシ、ひどい時は路上でマイクパフォーマンスで喋りっぱなしだったんです。
私のインスタライブを見てくださる方はわかると思うのですが、基本的に話が止まらないのは、この耐久マイクパフォーマンスの経験が大きいです。
「自分が思っているほど他人は自分に興味がない」と、このマイクパフォーマンスの時に学びました。後述するイベントコンパニオンも、ものすごい数の自撮りを毎日してSNSに上げていくわけですが自分が特別可愛いと思ったことはないので「好きな人だけ見てくれたらいい」「ハマる人にだけハマればいい」という気持ちでやってました。今もその気持ちは変わっていません。
平日に仕事がなかったので他にもバイトをしようと思い、家庭教師のトライとはなまる学習教室という塾へ講師登録をし、幼稚園〜高校生まで、英語と数学を教えていました。それでも時間が余っていたので平日に朝の6時〜9時まで近所のローソンで働くことにしました。
第2章② 突然起こった悲劇
〜見知らぬ女子大生の一言に傷ついた日〜
ある日、いつも通りローソンで働いてから大学に行き、授業を受けていると後ろに座っていた見知らぬ女子大生に「なんか唐揚げくさくない?」と言われました。ローソンで無限に唐揚げくんを揚げてから学校に行っていた私は、見知らぬ女子大生のその一言にとても傷ついてしまいました。その時に「なんでこんな朝早くから安い時給で働いて、唐揚げくささを気にしながら授業を受けているんだろう」とふと思いました。
唐揚げ事件があってからも、「人が足りないから辞めないで」と言われ、結局卒業間近までコンビニのバイトは続けたのですがそれからはお金にこだわってバイトをしようと決めました。この時の月収は大学の授業は全部出席をして月収15万円前後です。
ローソンでは単純接触効果の重要性を認識しました。
毎日タバコを覚えて、笑顔で対応していたら
・TOYOTAの社員さんからリクルートされる
という経験をしました。(アドレスを教えて欲しいというお手紙は4人にいただきましたね。1人お付き合いしましたが基本的に自分から好きになった人じゃないとのめり込めないことに気づきすぐ別れました。)
最後、コンビニバイトを辞めるきっかけになったのがトラックの運転手さんによるストーカーでした。(この一件は今でもトラウマで110番アプリをずっと携帯に入れてます。)心を完全に開くのは一定の人だけですが、愛想よく普通の会話を誰とでもできてしまうところがあり、最終的にはオーナーさんに「事件になりそうだから辞めたほうがいい。」と言われました。
50代くらいのおじさんだったのですが「生き別れた娘に似ている」と言われて、最初は毎回コンビニスイーツを渡されて、そのうちレジが複数あって私のレジではないことが分かると後ろにもう一回並び直すようになり、あまりにもレジで長時間捕まるので、該当の方が来たらレジから外れてドリンク補充に行くようになると、最後には私のバイトが終わるまで駐車場で待つようになり、車通勤をしていたのですが車に乗り込むところで、差し入れを渡されるようになり、それでも足りなかったのか家までついて来そうになって。(大型トラックだったので狭い道に入ってことなきを得た)
迎えに来れる時は母が、来れない時は他の店員さんが私が車に乗るところまで一緒に着いて来てくれるようになり、バイトそのものは好きだったのですが他の店員さんに迷惑もかけてるなと思い、辞めることを決意しました。
人間の怖さみたいなものを初めて体感しました。
第2章③ 夜の世界へ参入
まずは手始めに短時間で稼げるというイメージの強かったキャバクラの体験入店を友達としました。
しかし、なんと・・・親友の友達のお兄ちゃんの席につくというなんとも拍子抜けをする展開で、何か後ろめたさがあるバイトは嫌だな〜というのと、タバコが嫌なのと、夜は寝たかったので2日間で辞めました。
しかし唐揚げ事件をきっかけにどうしても安い時給のバイトからは脱却しなければ、という思いで必死にバイトを探しあるバイトに行き着きました。
第3章 短時間で稼げる夢のバイトとついに出会う
バイトを探しまくった結果、ある日夢のようなバイトに出会います。私は小さい頃から大学生になっても基本は22時には就寝をしていたのですがギリギリ起きている範囲で、4時間12,000円のバイトでした。
そのバイトは「タバコのサンプリングガール」でした。応募の際に、身長や体重制限があり、プチオーディションがあり、おそらく体重は規定の体重よりオーバーしていましたが笑 人が足りていなかったのか、夢のバイトに合格しました!タバコを吸ったことは人生で一度もありませんでしたが、(未だに吸ったことはありません)コンビニで毎日タバコを触っていたので銘柄を覚える手間もなくとてもいいバイトでした。
そのタバコサンプリングと並行してオーディション系に味をしめた私は、少し露出度が上がるけど4時間16,000円のパチンコのホールアイドルのオーディションを受けました。
オーディションではいきなりへそだしコスチュームを渡されてムダ毛の処理もままならないまま笑 コスチュームに着替え、「ちょっとダイエット頑張ろう」という条件付きで、オーディション合格!
無事4時間16,000円のバイトを始めることになりました。この時は大学も3年後半でおそらく月収で20万円くらいはいっていました。
このバイトは容姿が重要なのでバイト前はご飯を抜いたり4時間とはいえ、パチンコ屋さんの騒音とタバコ臭さはすごかったので「楽して稼げる道はない」と確信したことも覚えています。お腹に肉が乗りすぎて「現場入れられないよ!」とディレクターに言われたこともあり、ダイエットに励みました。
大学4年生になってからはほとんど授業もなかったので、タバコサンプリングガールとパチンコホールアイドルの経歴を武器に、美容院のサロンモデルや展示会(大手乳製品)のコンパニオン、アスリート等のクローズ宴会につくコンパニオンなどをしていました。
この時からSNS集客をしていたので、(自撮り写真を載せてパチンコ屋さんにきてもらう)SNS集客歴は10年を超えましたね。
人生最大のモテ期を迎えますが、「イベントコンパニオン」という肩書きが好きなんでしょう?という卑屈な気持ちになってしまい、友達の紹介で同い年の人と1年くらい付き合った以外は、中身のない恋愛をしていました。
根が真面目なので浮気したりはなかったのですが、言われるがままに付き合っていた時期があって(多分心が病んでいた)親友がドライブデートに誘ってくれたり、色々なところに連れ出してくれていましたね。
お酒の席に着くコンパニオンの時は、大学生で他にやっている人がいなかったのと、お酒の作り方も分からなかったのと、おじさんにベタベタするのはどうしてもできなかったので、「教養で勝負だ!」と思い真面目そうなおじさまに社会の色々なことを教えていただく=気持ちよく話せるような相槌と最低限の常識を武器にポジションをとってましたね。当時、株なども当てずっぽうでやっていたので、投資について教えていただくことが鉄板ネタとなってました。
派手にキャピキャピしたり媚びを売れるタイプではなかったので、地味な私が「何を提供できるか」「どんな価値を創造できるか」は、いつも考えていました。
第4章 近さだけで決めた就職活動〜卒業
そんなバイトをしながら、いよいよ就職活動の時期が来ました。実家が大好きだった私は近さだけで、誰もが知っている生命保険会社に就職を決めました。生命保険会社の就職活動時に見せられる感動的なPVでいつも泣いてました。(結構、感受性強めです😭笑)
就職活動が終わってからは、バイトで貯めまくったお金で週1回海外旅行に行ったりと大学生活を謳歌しました。
走るのが好きでランニングイベントにフラフラ参加したり。
卒業前に「ちょっと走っとくか!」と思い、ホノルルマラソンと古河はなももマラソンというフルマラソンに挑戦しました🏃今度は子どもと出たい😊
実はこの大会期間中、同じように卒業旅行で来ていた同い年の人にアプローチを受けるとい胸キュンエピソードがありました。
最終的に帰国後のクリスマスに告白してもらったんですがタイプじゃなくてお付き合いできず。心を開くまでに時間がかかってしまって、「自分がとことん好き!」という状態にならないとなかなか先に進めず恋愛はすごく下手でした。
結果として、1年生、2年生は特待生で3年・4年は最低限の授業を受けていなかったので特待生は取れませんでしたが、大学の成績表を最後に渡された時に教授から「これほどの成績の学生さんは30年間見てきて初めてです」と言われましたが、最低限の授業にしか出席していなかったので首席は取れないまま卒業となりました。
まさか、首席になるためにそんな単位の条件があったとはー!と今でも少し心残りです(最初に確認しとけ😂。)
ちなみに大学生活を振り返ると一切ウェイウェイ🍻することなく仲の良い3人組でひっそりと過ごしバイト以外の時間はビジネス向けの本を読んでいました。大きくなったら親を楽にしたい、いつか絶対起業しようとこの頃から思ってはいたので人脈を広げるために、パーティーに行ったこともありますが、コミュ障気味な私は疲れてしまい二度と行かない!と感じました。
MLMの世界に吸い込まれそうになりましたが、回避できました。
在学中からブログアフィリエイトなどはミニマムにやっていましたね。
内気な性格だったので小学生から高校生くらいまで思ったことや感じたことをブログに書く習慣があったので、取り組みやすかったです。
第5章 秒速で辞めた生命保険の営業
新卒で入った生保の法人職域営業は結論から言うと最悪でした。笑
営業で入ったのですが、同期の中には枕営業をしているだろうという人もいたり、上司が同行してきた際には情に訴えて無理やり契約を取ろうとするなど程度の低い会社だったからです。
100人近い同期の中で一番最初にお客さんから契約をもらいました。私は営業に向いていると思っていたのですが、実際は全く向いていなかったと言うことにも気付きました。
そんな中でもFP1級の学科の勉強をしてました。(給料をあげたくて)書いて覚えるのが得意ではなくていつもこの重たい本を持ち歩いて移動中ずっと読んでました📗
夜のアポイントや飲み会に誘われることもあったので「なぜ、お客様に合わせて自分の生活スタイルを変えなければいけないのか」と悶々としていて「私が花を咲かす場所はここではない」という思いを日々抱きながら、誰よりも先にタイムカードを打ち17時に退社し続けた結果お局上司に目を付けられ、毎晩夜の19時まで説教されていました。
組織の中でうまく立ち回れない、社会不適合者だと自認しました。
そんな説教は右から左へ聞き流し大学時代に海外でボランティアをしたこともあったので、タイやマレーシアに移住してしまおうかなど色々と悩んでいました。
第6章 全てを変えた(元)旦那さんとの出会い
そんな時に(元)旦那さんとダイビングを通じて出会いました。
最初の印象はチャラ男でしたが、私が仕事で悩んでいることを話すと「すぐに辞めな!」と熱心に説得してくれました。
初めて会った日から1週間後には二人で飲んで、2週間後くらいには付き合い始めて、お互い実家に住んでいましたが電車で1時間の距離だったので、1ヶ月後には二人で同棲を始めました。
会社には「結婚相手が見つかったので会社を辞めます」みたいなことを言って辞めた気がします。突然決まった同棲だったので1日に5社面接を受けたりとハードな就職活動の末、一番条件が良かった士業に就職を決めました。
同期の中で最も早く辞めました。入社から半年でした。
第7章 これ以上にない税理士法人でたくさん学んだ3年間
簿記やFPなど基本的なお金関係の資格は持っていましたが士業の会社では3年間、会計・労務・税務・法務など様々なことを勉強させてもらいました。
入所してからはすぐ簿記2級の勉強をしました。
最初に勤めていた生命保険会社とは違い、働いている人は皆カッコよく、自分の仕事に誇りを持っているような人ばかりで、頭がいい人ばかりだったので常に効率を重視して定時に上がって無駄がなく家庭の時間も大切にできるような会社でした。
私はわからないことだらけだったのに本当に1から丁寧に会社の経営について教えてもらいました。
この会社に勤めたことは私にとってかけがえのない財産です。そこで勤めていた時の社長や上司が、本当に心から尊敬できる人で「こんなに素敵な大人がいるんだな」「こんな大人になりたいな」と理想の大人像を絵に描いたような人たちでした。
ちなみに先日、今私の会計周りを全て見てくれているほぼマネージャーのようなゆきやくん(京大卒・会計士試験合格)と私の直属の上司だった長野さんが業務提携を結びました。今でも繋がりがあることが嬉しいです。
第8章 それでもやっぱりお金が足りない
ワークライフバランスも完璧で週末は(元)旦那さんと遠出したり、平日も毎日夜は二人でゆっくり話をしたり、金曜日にはお酒を飲みながら映画を観たり何も不自由のない生活を送っていました。
しかし私には、借金があったのです。
その借金は学生時代に組んだダイビングの機材代80万円と車のローン約200万円でした。そのローンなどの返済と共に、実家への仕送り3万円をすると毎月手元に自由になるお金は3万円もありませんでした。
結婚前に海外に1人で移住してみたいという野望があったので、こんなに早く誰かと同棲したり結婚したりするVisionではなかったというのが大きな誤算ですね。
意外に尽くすタイプなので、一緒に暮らしていた時は旦那さんより遅く起きたことはほとんどなかったと思います。
いつも早く起きて家事をしたり、税理士試験の勉強してましたね。
起業した今は、もし誰かと一緒に暮らすことがあっても作り置きとかはできないと思います。お金で時間を買うことを優先する思考に変わりました。
第9章 アフィリエイトとBitCoinFXにハマった暗黒時代
とにかくお金がなかったので、何かお金を作り出さなければと言う思いから休日に記事を書いてアフィリエイトを再び始めました。
小学生の頃から白紙の状態からホームページを制作するなどHTMLの基本的な知識はあったので、WordPressでホームページを作り、エステの体験レポなどを書いていました。
しかし思った以上にアクセスは伸びず、月の売上は1〜3万円程度だったので、飽きてしまいいつからか(多分半年くらいかな?)記事の更新を辞めてしまいました。
そしてその時、足を踏み入れてしまったのです・・・仮想通貨に。
中でも大きく短期間で稼ぎたいと思った私はビットコインFXにハマってしまい、全く利益は出ないのに最初は夕食後だけみていたはずが気づけば旦那さんの会話も耳に入らず、真夜中にも気になって起きてしまうほどのめり込んでしまいました。結局±0くらいのところで辞めることにしました。
あの時期は本当に寝不足で株なら日中だけなのでいいですがFXは本当に生活を変えてしまうな、怖いな、と感じました。
第10章 結婚、マイホーム購入、妊娠
そうこうしているうちにプロポーズ、入籍、結婚式まで怒涛のスピード感で終わっていきました。
私が(元)旦那さんと出会ったのは23歳の8月だったんですけど24歳の5月(私の誕生日)に予想外のプロポーズ。全く予想してなかったものの、嫌いなところがなかったので「お願いします」と伝えました。
そして結婚式を迎えました。
表参道で結構盛大にあげましたね。
その後、マイホームを購入しました。
人生の大事なライフイベントを2年間くらいの間に淡々とスピーディーに終えて(笑)お腹に赤ちゃんができました。
私が住んでいるのはとてもアクセスの良い地域で購入した戸建ても5,000万円近かったです。なぜ購入したかというと、子どもが欲しいと思った時に当時住んでいた結構立派なマンションでも他の階から泣き声が聞こえてきていたので、「これではのびのび子育てができない」と思ったことがきっかけです。そのほかにも、都会で車を持っていたのですが駐車場の料金を考えると戸建ての方が安かったからです。
ちなみにせっかちな私たちは、戸建ても3件くらい内見をして、「戸建てが欲しい」と話してからおよそ1ヶ月で契約まで終えてました。とにかくせっかちな二人でした。笑
そしてお腹も大きくなってきて私が産休に入るころ「なかなか家計がヤバイな」ということに気付きました。そこで「主婦 副業」などと検索をしてBUYMAを始めました。
第11章 いざ物販の世界へ!
〜成功している人はゴロゴロいるのに自分は成果が出ないもどかしさ〜
お腹が大きくなってからは、とにかく外注化しようと思い出品外注さん、お問い合わせ対応さん、発送梱包外注さんを見つけて、妊娠期間中にほぼ自動化が完了していました。
しかし、肝心な利益はというと外注さんに報酬を支払ったらプラマイゼロ、むしろマイナスの月もあるという状況でした。ちなみに初めて購入されたのはBUYMAで出品作業を始めてから1ヶ月半後でした。なかなかそれまではきつい日々が続きましたが1日5品くらいは一人で出品をしていたと思います。
しかし、この時ネットではBUYMAで月収100万円の人をゴロゴロ見かけるのに自分では一生懸命やっても(一生懸命やっているつもりだったけど今思えば全然作業量足りない)全く100万円の想像がついていませんでした。
この時の私はリサーチを知らなくて、色々なブランドを端から端まで出していましたが月間出品数は100件前後だったと思います。
今思うと成功する基準値を全くわかっていなかったですね。
妊娠期間中、子宮頸がんが発覚&切迫早産で1ヶ月入院と、ハイリスク出産となりました。娘を授かっていなければ、子宮頸がんも見つかっていなかったので教えてくれたんだと思います。
切迫早産でベットから起き上がってもいけない、パソコンも寝ながら病室でやっていましたね。
第12章 旦那さんが退職させられそうな危機に直面
そんなこんなであっという間に出産を終えました。娘はなんと、私の祖母と同じ誕生日なんです。不思議なご縁を感じますね。
その時旦那さんも育休を取っていたのですが、育休を取ったことで会社の出世街道から外されてしまいました。このままだと会社に居場所がなくなるのでは、と思い新生児を二人で見ながら、二人で育休中に生計を立てられる副業をすることを決めました。色々と調べて最初は輸入をしようと思っていたのですが・・・
ついにeBayと出会いました。消費税還付はすごいし、世界を相手にするって何かすごいよね〜!となり・・・二人で始めました。
第13章 甘くなかったeBay
〜焦りで険悪な雰囲気が続く毎日〜
そして、ついに二人でeBayに参入するわけですが、当初は世界をつなぐさんのセミナーに行ってみたり、かたっぱしからeBayの情報発信の方の記事や動画をみながら、黙々と作業を・・・・したかったのですが、ここで大問題が生じます。なんと(元)旦那さんのパソコンスキルが原始人レベルでした。
娘が1歳になる頃までは、私が別室で娘と二人で寝て夜泣きの対応をしていて究極の寝不足だったということもあり、常に主人に対してイライラしていました。(ちなみに子どもができるまでは7歳の年の差もあってほとんど喧嘩をしたことはありませんでした。)
娘が生後1ヶ月くらいの時だったので、出産の傷も痛むし動きたくないし、そんな中でeBayを始めたので、こうなることは当然です。この時は二人ともが作業をしたくて、娘が泣くたびに「どっちが抱っこするか」という無言の探り合いをしていた気もします。今思えば、あんなに可愛い新生児期をあんな風に過ごしてしまって少し後悔しています。
第14章 eBayコンサルを受けることを決めた日①
夜な夜な二人でパソコンを並べてご飯の時以外はずっと、eBayリサーチをしていたのですが、リサーチをしてもしても全く売れない日々が続きました。
この時、育児が想像以上にハードだということ、もし私たち夫婦で会社に復帰をしたとしても今の家に住んでいたら毎月の生活費でいっぱいで貯金が一切できないこと(二人合わせて手取り50万円くらいでしたが私の借金もあったので)、主人の会社の中での立ち位置が育休中にものすごく変わったことで、育休中に何がなんでも何かしらの成果が出せなければ、家を売らなければいけないというような究極に追い込まれた状況でした。
そこでコンサルを受けることに決めました。
第15章 悪質コンサルとの戦い
コンサルを受けることを決めたものの(コンサル代は40万円でした)、マニュアルはeBay輸出で有名なモトキさんの記事を送ってくるだけ、skypeは5営業日以降で予約制で、希望の日時を第三希望まで送るというなんとも怪しい感じでしたがコンサルを受けたことがなかった私たち夫婦は「そんなものか」と受けていました。しかし、2週間経ったある日、SAL便で追跡なしで送るという方法を提示されていたのですが郵便局の方から注意されたことがあり、その件について急ぎで連絡をしたいと言っても対応してもらえなかったため、コンサルをやめて日割り分を差し引いて返金してほしいと伝えました。
しかし、「コンサルをやめる権利はない」と言われ、この言葉をきっかけに悪質コンサルトの戦いが始まります。
私は「お金は戻ってこないな〜」と思っていたのですが、主人が徹底的に戦いました。
この時主人がやったことは消費者センターへの電話、弁護士への相談、決済をしたクレジットカード会社への相談、決済をしたPaypalへの相談でした。
この件については後ほど書きます。to be Continued....❤︎
第16章 eBayコンサルを受けることを決めた日②
eBayでも結果が出ない、悪質なコンサルに40万円も払って、すでに気が狂っていた私たち二人はさらなるコンサルを受けることを決めました。笑
新しいコンサルは売れているものを教えてもらうものでしたが金額はおよそ100万円でした。後から考えたらこの100万円のコンサルは本当に大正解で、人生を変えてくれました。
このコンサルを受けて、売れてはきたものの私の口座残高は26円になるという人生最大の危機を迎えていました。ここまでくると、もはや失うものは何もない、やるだけやろう!という明るい気持ちになってくるので笑、毎日夫婦で真夜中までひどい時は朝方4時まで梱包をしたりしていました。コンサルを受けてから1ヶ月目で月利10万円を超えました。
第17章 コロナ×サスペンドのダブルパンチ
口座残高26円は脱したものの常にカード支払いの請求に怯えた日々が続いていました。そんなある日、1通のメールがきました。
内容をよく読みましたが、多分3回くらい死んで現実に戻ってくるまでに時間がかかりました。私のアカウントがサスペンドとなったのです。サスペンドとはアカウントの凍結・制限のことです。
原因は悪質コンサルに教えられたやり方で追跡なしで、SAL便で送った商品が届かず立て続けに10件ほどケースオープンされたことでした。全額返金をしていたのですが、ほとんどの商品に追跡がついていなかったことで1ヶ月のサスペンドとサブ垢のリミットも大幅に減らされて生き残っていた主人のアカウントでのみ、頑張ることにしました。ほとんどが有在庫だったので、この1ヶ月のサスペンドで資金繰りが悪化し、我が家の貯金はほぼ0円になりました。
この時まだ、悪質コンサルとの戦いは続いています。
第18章 主人がヘッドハンディングされる
この時家計のお金はほぼ空っぽになり、いよいよ家を売らなければ・・・いや、引っ越すお金もないな、というレベルになっていましたが、(元)旦那さんが友達からヘッドハンティングをされました。
元々大手不動産で全国1位の営業だったんですよね。
そこで急遽前に勤めていた会社の育休を切り上げて、そちらの会社に入社しました。
第19章 ワンオペ育児とeBayのハードモードデイズ
主人が会社に勤めはじめるといよいよ私のハードモードデイズが始まります。毎朝6時半ごろに起きて娘が寝ている時は梱包をして主人を送り出して、娘と朝ごはんを食べて公園に行って、公園から帰って機嫌がいい時にeBayのお客様対応をして昼寝の間に届いた商品の荷ほどきや梱包をして、集荷に来てもらって、娘の寝かしつけをして、主人が帰ってきたらご飯を食べて、お皿洗いなどは主人に任せて私は出品をして、夜中2時ごろまで梱包をするというような日々が4ヶ月ほど続きました。
その時も私は常に寝不足で、常にイライラしていたので、こんな生活は長く続けられないと思い、月の粗利が100万円を超えたことをきっかけに、近所に事務所を借りることを決意しました。
第20章 〜完〜 悪質コンサルとの戦い
そんな日々のなかでついに悪質コンサルとの戦いに終止符を打つことができました。結果から言うと「ー勝訴ー」って感じです。全額が戻ってきました。主人の粘り強さが功を奏しました。
カード会社のチャージバックという制度を利用し、不当なコンサルであることが認められたのです!弁護士二人と消費者センターへ相談し、密に連絡を取ったことも良かったのだと思います。
この頃はeBayの収入も安定してきていたので、ついに私たちの時代がきた!という感じでした。そこで、私は借りれるうちに借りておこうという借金プロの精神が作動し、日本政策金融公庫へ融資を申し込みました。
損益計算書や月ごとの売上・粗利・純利益の推移表を作成して持って行ったことも良かったのか(一番はコロナの時期で借りやすいということもありましたが)1週間ほどで300万円の融資が決定しました。
第21章 借りたお金で事務所を借りる〜救世主の出現〜
借りたお金は自分のものなので(笑)早速事務所を借り、不動産に詳しい(元)旦那さんが事務所を探してくれました。そして当時も利益がないままほぼ自動で回っていたBUYMAの仲が良かった外注さんにそのことを伝えると、「近所だったら私がそこで働きたかった!」と言ってくれたのです。(この時のBUYMAは利益がないけど外注さんだけでまわっているような状態でした)
この外注さんは本当に良い方でBUYMAのリーダーを任せていたのですが、「この人に働いてもらえるなら最高だな」と思い、県をまたいで、その人の家の近くに物件を探すことにしました。笑
車で1時間半くらいのところに主人が良い物件を探してくれました。良い物件すぎたので、内見もせずに電話で契約をする旨を不動産屋さんに伝えました。笑
そこからバタバタと引越しをしました。主人は勤めていたので、家にあった在庫や梱包資材50箱弱は私が全て玄関まで運びました。
(元)旦那さんがトラックを借りて夜な夜な二人でダンボールをトラックに積み込み、(近所の人から心配されて手伝おうかと言われました。夜逃げではありません。笑)無事事務所への引越しが完了しました。
第22章 利益が大幅に下がる月が半年続く
主人が不動産のプロなら、私は借金は多いですがお金の知識があったので、事前にいろいろな計算をして事務所を借りて従業員さんを雇ったのですが、想像以上に軌道に乗らない日々が続きました。
当時は従業員が二人、月の利益は150万円。想像していたよりお金が残りませんでしたが消費税還付もあったのでやめるという選択はありませんでした。
そんな状況ではありましたが税務上、有利になりそうだったので、法人を設立して私が社長になりました。
この時コロナで2ヶ月で800万円の負債を抱えてしまいました。(今もまだ返済している)輸出入が全て止まってしまったんです。売上金の没収、決済システムの凍結、アカウント凍結、送った数百万円の商品が半年間戻ってこない…。
従業員への給料は止められないし、高利息のところから借りられるだけ借りてなんとか凌ぎました。
戦略としては、商品単価10倍のものを取り扱うようにして無在庫で販売したかったので(在庫を抱えられる資金的な余力がなかった)とにかく出品数を増やしたかったのでフィリピン在住の外注さんを雇ってすごい勢いで出品してもらいました。当時フィリピンは物価が日本の7分の1だったので、日本だと700円のお仕事を現地だと4,900円でお願いできるイメージだったんですよね。満足度が高いので、皆すごく頑張ってくれました。
第23章 突然決めた主人の退職
ここにきて主人はヘッドハンティングされた会社を辞めることにしました。
簡単に書くと、私は1歳の娘がいて日中ほとんど仕事ができなくて、時間さえあれば売上をあげることができると分かっていたからです。
主人も相変わらずせっかちなので、会社を辞めるとなって1ヶ月後には辞めました。
第24章 家族3人で仲良く過ごす日々
夫婦で脱サラというと普通はもっとちゃんと計画をするのかとは思うのですが、我が家は心の負担や事業の成長スピードを考えて、それほどちゃんとした準備をしないで脱サラをしました。
しかし、結果としてこれも大成功の決断だったと思います。今度はBUYMAで60万円のコンサルを受けることにしました。笑
しかし、主人は800万円の負債あたりから(会社を辞めたあたりから)鬱状態になりほとんど仕事ができませんでした。
なぜBUYMAかというと、ある程度評価もあってあとはリサーチの仕方さえわかれば、利益があげられる体制だったからです。
それからは日中は主人が子どもと過ごして(全員リビングにいるので、同じ環境に入るのですが)私が1日中BUYMAをするような日々が続きました。
そして3ヶ月で月商1,000万円を突破しました。ほぼ寝ないで、50人以上の外注さんと一気に出品数を増やしてここからかなり軌道に乗り始めます。
「物販は資金力だ!」とすごく感じました。
第25章 SNSマーケティングの世界へ参入
物販はほとんど手放しでも利益が出るようになったので、好奇心旺盛な私は次に「インスタでインフルエンサーになるぞ」と決めて、毎日3時間ほどかけて投稿作成を始めます。
当時の投稿がこれです。お願いですから引かないでください。
世界観もクソもないような投稿をしていたんです。インスタに関しては特にコンサルを受けていなかったので、これでも頑張っていると思っていて、いつか自分も万垢になってアフィリエイトで月100万円稼ぐぞ〜!と思っていました。
第26章 師匠との出会い
そしてインスタ開始から5ヶ月後。フラッと授乳しながら聞いていたウェビナーで私の人生はさらに変わり始めます。
「どうやらSNSで自動化して100万円も1,000万円も稼げるらしい」
めっちゃ怪しいやん!と(元)旦那さんには言われました。猛反対されました。
私自身も実際何をやるか、わかっていなかったです。ですがすぐにお金を工面して100万円のコンサルを受けました。即断即決です。
気になったらやってみる!で人生を変えてきたので、今回も直感だけを信じて決めました。
この時に出会った師匠は今でもお世話になっています。
第27章 まさかコンテンツ販売を自分がするなんて・・・
そして始まったコンサルティング。同期が100人以上いたのではないかと思います。初回のコンサルを受けて、「物販のコンサルになればいいよ」とアドバイスをいただきました。
「自分がコンサルをするなんて・・・」躊躇したものの、「とりあえずやってみてから決めよう」と開始。
自分ですごいなと思うところは、「とりあえず」でやり始めたことにもかなりコミットできるところですね。
先のことなんてわからないけど「今」を本気で過ごさないと理想の未来はやってこないと心から思っているので、また3ヶ月間本気で過ごすことにしました。寝ないでコンテンツの準備、インスタの毎日投稿、LINEを使った仕組み化の準備をする毎日。
この時は、月に1人入ってくれたらすごいな〜という温度感でした。(そもそも自分がコンサルできるのかという不安があった)
第28章 コンテンツ販売開始前日に家を出る
そして私が寝ないでコンテンツ販売の準備をしている間、(元)旦那さんは子どもをみてくれていました。しかしこの時(元)旦那さんは鬱になりかけてたみたいなんですね。
当初の私は「俺は鬱だ」と言われても、「働いてるの私やし!」と思って
なかなか素直に話せずにいました。これは今でも申し訳なかったなと思います。ただ必死で仕事をしている私の横で1日ゴロゴロして転職サイトをみてるよと言っても全く面接に行かない人を許せなかったんですね。
そこで義理の姉に相談してみたんですが以前から気になる部分はあったのですが(義母が突然家に押しかけてきたり)義理の姉から許しがたいLINEが届きました。
ぎゅっと要約すると「男を立てなさい」というものでした。
「え?!働いてんの私よ!もう一生外に出られませんって言ったの旦那やし!」
私は、外で主人のことをけなしたりしたことはなかったし、やっぱり自営業が無理なら外で働けばいいんじゃない?と伝えていたので主人がどういう伝え方を主人側の家族にしているのか、許せなくなりました。そして主人と義理の姉のLINEを読んでしまって、私は1番信じていた主人に裏切られた気持ちになりました。「もう夫婦でいられないな」と思ったんです。
その前にも義理の姉から「じゃがいも掘ってきたから」と早朝6時くらいに玄関にぶら下げにきて私に対する「美味しいご飯を作ってあげてね」とすごい嫌味の長文手紙が入っていたりもあったんですよ。(私はそもそも料理が好きじゃないし、仕事が忙しく簡単なものしか作っていなかった)
家の近くには主人の親族ばかりで逃げ場がなかったし、こんな環境なら絶縁してもいいと思い、主人とも離婚するつもりで15分で荷物をまとめて翌日ヤマトさんに集荷に来てもらってすぐに家を出ました。
旦那さんには引き止められましたが、ボコボコにぶん殴って意志は変わらない旨を伝えました。指輪もぶん投げてきました。
(多分ですが旦那さんがまだ持っていると思います💍)
人をぶん殴ったのはこの日が初めてで、きっとこれからもないと思います。
この時、「私はこの家に二度と戻らない」と決めていたので住民票も抜いてきました。"決意"と"覚悟"ですね。
ちなみに家を出てから涙を流したのは家を出てきて実家に着いた時だけです。
「自分で決めたことだから。私が泣いていたら娘を守れないな。」と。
だから泣かない、どんなことがあっても歯を食いしばってやってくと決めてたんですw
第29章 コンテンツ販売開始3ヶ月で売上1,000万超に。
そして家を出た翌日から販売開始だったので、保育園探し、ベビーシッターさんを探すところからスタートしました。予想外だったのが、ありがたいことにコンテンツ販売が想像の100倍くらい売れたことです。ちなみにインスタでは当初顔出しもしていなかったので、これでセールスしてました。
このレモンちゃんでも
・自分の実績を最短で作っていた
・正しく売れる仕組みを構築した
ことでなんと3ヶ月の売上は1,000万円を超えました。
逆にいうと顔出しってやっぱり必須ではないのだなと思います。しっかりと自分と価値観が同じ人を集めて悩みが解決できるような商品だったら。
第30章 コンサルタントとして激動の日々
最初は保育園がなくて、フルでベビーシッターさんを呼んで過ごしました。娘は大好きなパパに会えず泣く日々。私もふとした時にこれでよかったのか悩む日々。だけど仕事は待ってくれなくて自分のことを信じてくださったお客様のために全てを費やそうと思いました。
一度、新たなクライアントさんの受け入れを停止し仕組みを整えながら、物販のコンサルティングを毎日していました。今でもこの時のメンバーさん達とは親交があり、拙いコンサルティング、1人親でZOOM中に娘が泣いて中断したりを見守ってくださり本当に感謝していますしずっとこのご恩を忘れないです。本当にありがとうございました。
土日昼夜問わず、ひたすらZOOMをしてました。土日と平日の夜は、ベビーシッターさんを呼んで。1ヶ月に1回だけ完全にZOOMを入れない休日を作って娘とたくさん遊びました。
この頃主人はというと私と娘がいなくなった家の売却手続きを一人で進めながら、転職活動をしながら、派遣をしながら過ごしていたみたいです。男性の場合、脱サラって安易にするもんじゃないなと主人を見ていてすごく思いました。ちょうど、コロナ渦だったこともあり就活は難航していました。最終的には納得できるところに入れたみたいですけど半年以上就活してたと思います。
主人は2週間に1回、片道1時間半かけて娘に会いにきていましたが私はほとんど会話もしませんでした。まだこの時は主人のことを許せなかったです。
お互いがもがいていたんだと思います。主人も私に対する話し方が「ふざけんなよ!」「話聞けよ!」と言ったきつめの言葉になっていましたし私もきっと同じでした。やっぱり夫婦は鏡ですね。
私は、乱暴な言葉に対してすごく過剰に傷ついてしまうところがあり、この言葉遣いにはかなり大きなダメージを受けました。
今思うと、別居しなければ主人はあのまま社会に復帰できずにいたでしょうから、それ自体は後悔していないんです。ですが、精神的にはかなり
きついことをしまったなと思います。
第31章 マーケティングコンサルに行き着くまで
そんな忙しい日々を1年半くらい・・・。ある日気づくんですね。
自分がこれからの人生、娘とどうなりたいのか、本気で考える日々の
スタートです。コンサルというお仕事はとても好きでしたが、もっと深く考える必要がありました。
自分が1人親として生活するようになった時に今まで主人がいたら見えなかったことに気づいたんですね。私の軸がこの期間に段々はっきりしました。
在庫をもたないこと
どこでも仕事ができること(この時娘と海外移住も考えていた)
誰でもできること
初期費用がかからないこと
年商3,000万円以上を目指せること
シングルマザーの人、子育て中のママも取り組めること
即金性があること
そしてYoutubeを始めました。
この時期あたりから家族3人で週末お出かけを少しずつ復活させました。主人との話し方を忘れてしまってぎこちなかったですが娘が大喜びで😌
離婚しない方がいいかなって思い出したのもこの辺りです。
第32章 Youtubeで700万円使った話
その後挑戦したのはYoutubeでした。顔出しなしでも出来ると聞いて。
動画編集できれば、誰でも無料で始められるな、と。この時期から私が新規で参入する事業はコンテンツ販売できるかどうか、が一つの基準でした。
相変わらずコミット力はあったんですね。一気に外注さんを50名以上入れてフル外注で回しました。4チャンネル一気に始動です。ですが、今回は失敗に終わりました。
コンサル費用370万円
外注費330万円以上
を使って、今もまだ取り返せていません。しかし収益化したチャンネルもあったのでチャンネルの売却までできたことはよかったなぁと思います。
そしてこのYoutubeへのコミットがこの後SNSマーケコンサルですごく活きています。失敗を失敗で終わらせないのが、ポイントです。普通の人なら落ち込みますよね。私は一回休憩して違う形でYoutubeをやろうと今でも思っています。
第33章 SNSコンサルのスタート
そしてYoutubeは自分の中では再現性が担保できなかったので、インスタを人にお伝えしてコンテンツ販売を教えるコンサルタントになりたいなぁと思い始動しました。
そしてモニターさんを集めてインスタストーリーズの告知で10名くらい入ってくれました。
ですがここで事件が起きるんですね。
「3ヶ月間のコンサルでコンテンツ販売に挑戦できた人が1人もいない」
そうか、コンテンツ販売をゼロからするのって難しいんだなと思いました。
私の場合は3ヶ月で月商1,000万円を達成したという実績があったので躊躇なくコンテンツは作れました。ですが、一般の主婦の人は
「好きなことはあってもコンテンツにしてお金をいただく勇気がない」
ということに気づいたんです。
そこで即金性があるものとして急遽運用代行スクールを立ち上げたんです。
第34章 SNSマーケに限界を感じ広告へ参入
SNS運用代行コースは9割以上がマネタイズして結果として成功でした。
そこからはやはり「コンテンツ販売を教えてほしい!」という意見もありコンテンツ販売コースを作り直しました。
それからは、ひたむきにインスタの研究を重ね他のSNSマーケスクールに入ったり広告のコンサルを受けながらSNSのプロになるべく、とにかく修行を
重ねてきました。
顔出しも自信がなかったんですけど徐々に挑戦しました。
なんとかカメラに向かって話せるようになったものの、頑張れば頑張るほどSNSに限界も感じました。毎月100万円以上の売上を安定させることはできるのですが、毎月500万円、1,000万円というラインを目指すとなると再現性の部分で自信がなかったんです。
第35章 広告が難しすぎて1年間低浮上
子育てと仕事と毎日、がむしゃらに過ごす中で初めて挫折しそうになったのが実は広告でした。
パソコン操作はどちらかというと得意な方ではありましたがとにかく準備するものが多い。
Facebook上の設定が難しい
LPを作らないといけない
メルマガの準備
画像の準備
テキストの準備
気合を入れて1ヶ月程で、全て用意して回し始めるも、広告の用語が全く分からない。
・CPA?
・CPM?
・CTR?
実績はあったので初月からなんとなく成約するものの、SNSと違って全く信頼関係ができていない人が講座に増えて単刀直入にいうと「やりにくさ」をすごく感じました。
160万円の広告コンサルを受けていたものの、分からなさすぎて幽霊部員でした。
第36章 メンターと出会い広告でぶち上げた2ヶ月
2023.6月に転機が訪れます。メンターの彦坂盛秀さんが、私が幽霊部員の間もちょこちょこ連絡をくださっていたのですが「セミナーに来なよ!」と声をかけてくださったんですね。
藁をもすがる思いで、「どこかで腹括って頑張らねば。」と思って、内気な自分に打ち勝って彦坂さんに会いに行ったわけです。
結果そこから、大躍進が始まります。
彦坂さんのイベントには(飲み会も含めて)全部参加、グルコンも全部参加、コミュニティ内の発言も(苦手だけど)頑張る🔥そうやって、自分を奮い立たせて成果が出る環境に飛び込んだんです。
そんな1ヶ月を過ごしたら、止まっていた売上が一気に突き抜けたんです。
広告費70万円で売上600万円を達成しました🎉
ちなみに上記写真の石垣島に行くに当たって、彦坂さんから
「あきさん、石垣島でヒロインインタビュー撮るね〜」と言われていて、月末だったので
「この石垣島までにしっかりと売上を上げて胸を張ってヒロインインタビューに出るぞ」と決めて1ヶ月過ごして、石垣島の前日までクロージングをして、目標の500万円を大きく超えて600万円で着地したんです。
「成果を出すことを先に決める」=これも一種の覚悟だなと思いました。
その翌月も月商600万円を達成して、「広告最高!!!」となっていたところから一点、雲行きが怪しくなりました・・・・。
続きはまた今度
第37章 まとめ
おそらくインスタ・Twitterから私のことを知ってくださった方はもっと順風満帆な物販ライフ、脱サラライフを想像していたかもしれませんが現実はこんなものです。何かの犠牲無くして、大金を得ることはできません。私は、eBayとBUYMAと出会ってから一度も会社員の方が楽だと思ったことが正直何度もありました。
離婚もしていますしね、「家族もバラバラになって、いつも子育て<仕事で、子どもに寂しい思いをさせて何のために起業したんだっけ」って思うことも数えきれないくらいあったんです。
だけど、やっぱり私は起業家として以外はもう生きていけません。
家で好きな時に仕事ができる幸せ、子どもとゆっくり過ごせる時間、頑張ったら結果になってすぐに懐が潤うところ、など会社員だったらできないことは確かにたくさんあります。(と、数年前の自分は書いていましたが今はちょっと違う)
何者でもない私が、誰かに選んでもらって必要とされることってすごいことだな、ありがたいことだな、と思うんです。
ですが自営業は、頑張れなければ売上0円です。もっというと頑張っても売上0円の時だってあります。その辛さを痛感した時期もありました。それで去っていく仲間もたくさん見てきました。自営になって資金が回らず家を売った友人もいました。
会社を経営することは決して簡単ではありません。
少なくとも私は、会社を作る前に会社経営に必要な最低限の税務・労務・法務の知識は身に付けていました。もちろん税理士さんや社労士さんに頼れば良いのですが、自分で知っておいた方が計画をするときにより緻密な計画が立てられたりもします。
ちなみに5年前の私はこのnoteにこう書いていました↓
今はこうは思えません。
自営業に向いている人、向いていない人ははっきり分かれる。
自営業は辛いこともたくさんある。
自営業は家族も台無しにする。
こんな風にすら思います。
ですが、社会の動きを見ていると会社に勤めていたって同じことが言えるんですね。「安定」の定義があやふやになった今、何が正解か答えがわかるのは私たちが60歳くらいになる30年後くらいかもしれないし5年後にはもしかしたら年金支給が75歳になるなんてニュースも出るかもしれない。
誰も先のことは分からないけれど、私はきつくてもきつくても、どんなにしんどくても起業・副業に挑戦するならなるべく早くやってほしいと思います。
若ければ失敗しても立ち直れるからですね。
そして先日、会社を設立してから5年経ちましたが、しくじり先生的に伝えたいことがたくさんあるのでまた伝えます。
ここまで長々とお読みいただきありがとうございました。
順風満帆にいってるようで全然そんなことはなかったですよ。ですが、頑張り続ければ必ず道は拓けます。
起業副業に興味がある人、失敗した人、すでに起業しているがSNSを使いこなせていない人はぜひこちらからご相談くださいね。
最後までお読みいただきありがとうございました。