ずっと、書くことをあきらめる理由を探していた
長い間、「書くことで生きていきたい」と夢を抱き続けてきた。けれど、その気持ちとは裏腹に、「書くことをあきらめる、何か決定的な理由がほしい」と思うこともあった。
だって、全然うまくいかないまま、気づけば33歳になってしまった。私が小説を書き始めたのは8歳の頃なので、四半世紀何かしらの文章を書き続けてきたことになる。それなのに、いまだ何者でもない。最近は、その現実が以前より重たくのしかかるようになってきた。「書籍化が決まりました!」「連載が決まりました!」という【ご報告】を、スマホ画面越しに見つけては、進展のない己の足下に目を落としている。「小学2年生から文章を書いています」というのが、恥ずかしくてたまらなくなってきた。事実なのに。
エッセイで賞をいただいたこともあるけれど、残念ながら落ちている回数のほうが圧倒的に多い。小説で一次選考を突破したのは、たったの一度きりであったろうか。賞をいただいたこと、選考を突破したこと。それらは確かに、私の書き手としての頼もしい実績になっている。しかし、更新されていない何年も前の実績をぶら下げ続けるのは、過去の栄光にしがみついているみたいだとも思った。書き手としての私が、まるでもう息をしていないように感じた。
ありがたいことに、noteではたくさんの人にフォローしてもらっている。でも、ここ数年は、以前よりも格段に読まれなくなったように思う。つまり、私の文章から読者が離れていっているということだ。このことはもちろん気にしているし、発信を続けていくうえで考えていかなければならない事案だ。はやく、うまくならなくては。もっと、良い文章を書かなければ。そんな焦りばかりが募り、呼吸が浅くなる。脳に酸素が回らない。
近頃は、「なんでそんなにフォロワーが多いの?」と質問されるたびに、(全然うまくないのに)という先方の心の声が聞こえるようになってきた。被害妄想が過ぎる。でも、私にそのフォロワーを持つだけの実力があると認めていれば、出てこない質問なのではないだろうか。実力に見合わないから、そんな質問が出てくるのでは。嫌味なのか? と思ってしまう。相手の言葉を深読みしても何もいいことなんてないのに。
でも、賞に落ちたとか、読まれなかったとかは、私が書くことをあきらめる「決定的な理由」には、ならなかった。
私が高校生・大学生のとき、アニメの主要キャラクターの声がほぼほぼ神谷浩史という時代があった。その神谷浩史ですら、ラジオ(『神谷浩史・小野大輔のDearGirl〜Stories〜』)で「オーディションに落ちた」という話をしている。あの人気声優でさえ、今もなおオーディションを受け続けているのだ。そして落ちることがあるという。芸能界と文章の世界は違う? 前提も条件も違うかもしれないけれど、何千、何万の応募者の中から、ごくわずかの人数しか選考に通過しないのは同じであろう。あの神谷浩史ですらオーディションに落ち、それでもなお、挑み続けている。その事実を前にして、私がここでへこたれるわけにはいかない。私は、彼より多くの打席に立てているのだろうか。もっともっと打席に立たなければと思う。
それに、「読まれない」ことが「書くことをあきらめる理由」になるんだったら、とっくの昔にやめている。魔法のiらんどで携帯小説を書いていた高校生時代、まーーあ無風だった。それでも、私は書くことをやめなかった。それどころか「作家になるために、大学で文芸創作の勉強をする!」と、鼻息を荒くしていた。
落選とか、読者離れくらいじゃ、筆を折る理由には足らない。多少へこみはするけれど、一定の落ち込み期間を経て、私は不死鳥のように舞い戻ってくる。「これくらいの試練じゃあきらめないけど、どうする?」「ほらほら、もっと攻めて来いよ!」なんて、好戦的なキャラクターが顔を出しそうな勢いであった。
それでも、目に見えて進捗がない時間が長く続くと、やっぱりしんどい。しんどいのに、あきらめてくれない。相反する感情を持つ自分が、同時に存在している。どうしたらあきらめてくれるのだろう。あきらめられるんだろう。
頑固な私をあきらめさせる、もっと強くて、もっと確かな理由を、誰かに用意してほしかった。もっと、ズガンと殴られたい。もっと打ちのめされたい。もう二度と書けなくなるくらいの、決定的なあきらめる理由がほしい。だって、ねぇ、うまくいかないなら、夢なんて見させないでよ。ちゃんとあきらめさせるくらいの責任は持つべきでしょう? 神様。
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「エッセイや小説を書いたりするようなことって、算命学的に見ると阿紀ちゃんにすごく合っているんだよね」
昨年の初夏のこと。著者「かんころ」さんの「算命学コンサル」を受講した。天使のように可愛らしい笑顔を浮かべたかんころさんに、書くことが「合っている」と言われた私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思う。実際に鳩が豆鉄砲を食った瞬間は見たことがないのだけれど、きっとそういう顔をしていた。
今に始まったことではないのだが、執筆がうまくいかないときは殊更、「見えない力」を頼ることが多かった。もちろん、実力が不足していることは百も承知している。その不足を埋めるための努力だって、していないわけじゃない。でも、足りない。圧倒的に足りていないんだと思う。その努力が空回りするたびに、私は虚無になり、すがるような気持ちで「見えない力」に手を出すのだった。
わりと結構なお金を払い、見える系の人にオーラを見てもらったこともある(そのときは、「職場の人が生き霊になって憑いている」と言われた)。しいたけ.占いは、noteを購読しているくらい愛してやまない。数秘にも頼った。転機が訪れると言われている「サイクル33」が小説を書き始めた8歳の年にぶち当たっていた。
「見えない力」だけではない。MBTIなどの性格診断や、適職診断も片っ端から挑戦した。作家やライターが適職だと診断されるよう願っていたし、実際にそう診断されたときは、しばしの安心感に包まれた。
「見えない力」や「○○診断」の多くは、私の執筆活動を応援してくれる結果が出ることが多かった。信じるか信じないかは人に寄ると思うけれど、私はそうやって気分を上げて、執筆の手応えのなさを、どうにかこうにか乗り越えていた。それが健全な方法であるかどうかはわからない。不健全なのかもしれなかった。
けれど、かんころさんの算命学コンサルのときは、これまでと事情が違った。実を言えば、「書くことに向いてない」と言われるために、算命学コンサルを受講したのだった。
「見えない力」的に見ても、「○○診断」的に見ても、私に書くことが合っているのなら、あきらめなくていいのなら。もう少し、もう少しでいいから、続けられるような出来事が起ってほしい! ……と切実に思っていた。でも、ご存知の通り、一向にうまくいく兆しはない。だから、今度こそ。今度こそという気持ちだった。「運命を算出する」と言われている算命学で「向いてない」と言われたら、いい加減あきらめがつく。あわよくば、それよりも向いていて、うまくいくことを教えてほしいとさえ思っていた。
それに、かんころさんは4冊の著書を出版し、Instagramには4.5万人のフォロワーがいる。私自身も、彼女が主宰するオンライン・コミュニティ「かんころ未来創造Lab」に所属するほど、彼女のファンだ。常に言葉を選んで発信しているかんころさんが、「向いてない」と言う直接的なワードをチョイスすることはまず有り得ないのだけれど、それでも、尊敬している彼女から引導を渡されるなら、私も潔くやめられるような気がした。
私が驚いたのは、書くことが「合っている」と言われたことだけではない。「書くことって私に向いていますか?」と、私は一度もかんころさんに問いかけなかったのだ。受講前に記入した簡易的なアンケートには、金銭面での不安を書いた。その頃の私は、派遣の仕事が急に契約終了になったばかりだった。お金のことは本当に聞きたかったことだし、嘘じゃない。でも、「書くことって私に向いてますか?」とアンケートに書くのは、なぜだかすごく情けないように感じて、書けなかった。聞くつもりもなかった。本当は「向いていない」と言われるのが、怖かったのかもしれない。
ファンの間で、かんころさんの算命学やタロット占いは、「当たる」と知られている。かんころさんは、「どうも、エスパーかんころです!」と、笑いながら自身を紹介することもあった。私が聞きたかったことを、それとなく診断に含めて伝えてきたのは、まさにエスパーだった。そして、彼女の心遣いであったように思う。
コンサルでは、かんころさんに発信についても聞けるだけ聞いた。発信のプロに質問できるチャンスは、そう多くはない。これからも書くことを続けるための質問を、できる限り重ねた。書くことをあきらめようとしている人がする質問ではなかった。
ある意味、落選や読者離れやといったことは、「書くことをあきらめる、何か決定的な理由がほしい」という私の願いを叶えているとも言える。実力不足だと言ってしまえばそれはそうなんだけれど、これって、所謂「引き寄せ」というやつなのだろうか。私は、自分で望んで悪い結果を引き寄せていたのかな。そうだとしたら、ああ、笑っちゃう。
算命学的に見た私の特性や今後の流れ、今の私に必要なこと。それらをふまえて、かんころさんは、私の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。かんころさんと二人っきりで話したこの日は、間違いなく私の分水嶺の一つになった。
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本当の本当に「書くのをやめよう」と思ったことが、一度だけある。大学受験に失敗したときだった。
私は、早稲田大学を受験し、あっけなく落っこちた。名のある優秀な大学を卒業しなければ、作家にはなれないと信じ込んでいた。大人になった今は、それが作家になるための必須条件ではないとわかっている。けれど、高校生の私はそう考えていたのだった。作家になるために、賢く、教養のある人間を目指していた。でも、毎日12時間勉強をしても、早稲田には合格できなかった。それは、「最大の挫折」として、今も私の人生に君臨している。受験を終えたあとの春休みは、誰とも会わなかった。シャープペンの持ち方も忘れた。受験が終わったら更新するのだと楽しみにしていた魔法のiらんどには、一度もログインしなかった。滑り止めの、そこそこの偏差値の、そこそこの大学に進学した私は、もう作家になれないんだと意気消沈していた。
それでも、書かなくてはいけなかった。滑り止めとはいえ、文芸創作の勉強のできる大学を選んで受験していた。やっぱり、小説を書かなくてはならなかった。今思えば、古典や近現代文学などのゼミもあったのに、どうして文芸創作のゼミを選んでしまったのだろう。書くことをやめるのではなかったのか。教授に褒められるようなことは滅多になかったが、今でも大好きだと思える作品をいくつか書き、卒論では4万字を超える小説を書いた。
ついでに言えば、私はサークルでもよく書いた。高校生向けの大学情報誌を作成していたので、書かなくては話にならなかった。写真も撮ったし、編集もした。制作会社の人からのメールに「玄川さんはプロ並みに文章が上手だね!」と書いてあり、舞い上がってそのメールをお気に入り保存した。大学生をやる気にさせるための、ただのお世辞だったのかもしれないのに。就職活動を始めてしばらく経った頃には、本格的にライターを志すようになった。お世話になった大学の職員さんに書く仕事がしたいと伝えると、職員さんは「すごく合っていると思う!」と背中を押してくれた。それもまた、書くことを肯定されたような気がしてうれしかった。
そうして私は、ごくごく自然に、あきらめたはずの、書くほうの人生に戻っていった。
最大の挫折を経験してもなお、私は筆を折らなかった。どんな理由であれ、もう一度、ペンを持ったのだ。振り返ってみれば、あのときがいちばんのやめどきだった。ああ、なんか、このときですらやめなかったんだから、やっぱりこの先も、どんなことが起ってもやめないような気がする。どうせ、私は書くことをやめない。どうせ、私はあきらめない。それなら、「書くことをあきらめる理由」を探すのは時間のムダだ。私があきらめるのは、書くことではなかった。「あきらめる理由」を探すこと、だったのだ。
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大した成果も出ていないのに、どうして書くことをやめられないんだろう。
書くのって、面倒だ。目の前で起った、あるいは空想の出来事を、一つずつ丁寧に文字に起こしていく。心の奥底に眠った感情を深く深く掘って、ぴったり合う言葉を探し、あてはめていく。私は一つのnoteを書くのに、2~3週間程度を費やす。文字を打ち込んでいる時間だけが執筆の時間ではない。日々の生活から話の種を探し、水や光を与え続けるのも、執筆のための大切な時間だ。
けれど、こんなに時間をかけて、頑張って書いても、実際には結果につながらないことばかりなのだ。必ず誰かに褒めらるわけじゃない。なんなら徒労に終わることのほうが多い。何のためにこの営みが行われているのかと問われたら、正直わからない。やめられたほうがラクになるのに、と思うことさえある。
そんなに面倒で、大変なのに、どうしてやめないの? あきらめないの? 頭が心に問いかける。心は、素直にこう答えた。
「それじゃあ、つまらないじゃん!!」
私が書くことをやめないのは、あきらめないのは、書くことの“喜び”を知ってしまったからだ。
自分の考えや感情が、言葉としてカチッとハマる瞬間の快感。脳内のイメージを、文字というパズルを駆使して具現化していく気持ちよさ。そして、自分の作り上げた世界を誰かと共有できたときの、全身が震えるほどの悦び。
私はそれを知っている。知ってしまったのだ、もうずっと、何年も前から。その喜びが何物にも代えがたいということを。何物にも代えられないということを。私はずっとずっと、知っている。
ああ、だから、何度あきらめようとしても、やめようと思っても、やめられなかったのか。表現することの、書くことの喜びを、私はこれから先も決して忘れることはない。そして、求め続けるだろう、これからもずっと。
この喜びを、私は魂に刻んで死ぬ。
生まれ変わっても、書くことが好きであり続けるために。
*2024年11月3日(文化の日)。33歳になりました。
今年も誕生日にnoteを掲載できたことをうれしく思います。
33歳の一年もどうぞよろしくお願いします。
缶コーヒーをお供に働いているので、1杯ごちそうしてもらえたらとってもうれしいです!最近のお気に入りは「ジョージア THE ラテ ダブルミルクラテ」(160円)。今日も明日も明後日も、コーヒーを飲みながら仕事がんばります!応援のほど、どうぞよろしくお願いします。