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くさんず

昔、母方の祖父が、風呂に入るたびにこんな事をいった。

「くさんず、くさんず」

勤め先は海上保安庁だった。
海に憧れ、船に憧れ、いざ社会人として就職して初めて、自分がとんでもない三半規管の弱さである事を知った。
泳げない海賊みたいなもんだ。

だが、祖父は真面目で勤勉だった。以前紹介した父方の爺さんとは違って、揚げ足も取らない。通信士となってオカから船を守り、福島の港で還暦を迎えて退職した。
2011年の福島での震災があった際は、『サマーウォーズ』のばあちゃんぐらい各所に電話をかけて、大丈夫か、元気か、など声かけした。当時の総理大臣・菅直人氏による表彰状もある。

祖父は祖母と共に老後を京都府宇治市で過ごしており、私は彼を【宇治のじいちゃん】と呼んでいた。

老齢の人間が放つ言葉の意味を、10代前半の人間が理解しうるのは、結構骨が折れる。祖父の言葉は、言葉として非常に重たく、厳格で正しかった。
だから、冗談を言っている時でさえ、私は叱られているようにも感じたものである。

そんな祖父が、風呂場で放つ呪文、「くさんず」。
これは一体なんであろうか?

何かを指し示す単語であることは間違いがない。
しかし、検索エンジンに「くさんず」と突っ込んでも、ヒットする単語がないのだ。

ここで私は、母の絵本の読み聞かせを思い出す。母は耳が良いのか、リズム感があるのか、絵本に書かれた方言をかなり正確に方言として読めるのだ。
私が思い出したのは、『三枚のお札』だ。この話はいろんな派生があるが、私が読んでもらった秋田弁のものが、未だに好きだ。
この時の母の語り口から、東北訛りは言葉を崩して発することを思い出したのだ。

もしかしたら、「くさんず」と聞こえていただけで、原型はもっと違うものなのではなかろうか。

そこで東北方言、いわゆる「ズーズー弁」について、Wikipedia先生にお伺いを立てた。(言語学の教授に聞けたら良いんだがなぁ)

音韻上「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)の区別がない方言を指して使われ、一つ仮名弁(ひとつかなべん)とも言う。

Wikipedia

ふむふむ、「し」の口で「す」と言うような喋り方をするんだろう。口の負荷の軽減などが理由として上がっている。
いろいろと難しいことが書いてあるが、要するに、iの段がuの音に聞こえるようなのだ。
このルールに則ってみると、「くさんず」はこうだ。

「きさんじ、きさんじ」

きさんじ、これは数件ヒットした。
愛知「素晴らしい」
大阪「さっぱりした」
奈良「素直」
京都「呑気、気楽」
島根は出雲「痛快、気持ちがいい」石見「気晴らし」
いずれの場合も、爽やかな気持ちになったことを表現している。
つまり、お風呂が気持ちよかったなあ、という意味なのだろう。

ああ、くさんず、くさんず。

ところで、
なぜ祖父の言葉は東北訛りだったのだろうか。
「きさんじ」はご覧の通り西国の言葉のようだ。しかし祖父はそれをあえて、「くさんず」と言った。
なぜ?

ここでヒントになるのが松本清張『砂の器』だった。作品の謎の中で、おそらく最重要項目である東北弁に、改めて着目していただきたい。

こちらもWikipedia先生からの引用だ。


日本語の四つ仮名の分布図(Wikipediaより)

この中で、東北弁は緑色、「一つ仮名」となる。よく見ていただきたいのが、島根県が緑色である、と言う点だ。
昔大陸と日本が繋がっていた時期の名残か、もともと東北弁(ズーズー弁)の発祥は出雲だったという説がある。

「きさんじ」の分布と照らし合わせると、自ずと答えが出る。
祖父の「くさんず」は出雲弁だ。

……理論立てて説明したかったので、こんなふうに書いたが、実は私は最初から答えを半分知っていた。
祖父は島根県出雲市の出身だ。
しかし、前述の通り祖父は港港を転々とする職だったために、いろんな方言が混在していた。(母が方言に堪能なのも、そういった影響が強いんだろう)
だから、より明確にしたい面もあった。

ちなみに、海上保安官と言うと「自衛隊ですか」と返す人がいるが、違う。
海上保安官は国土交通省の管轄だ。『海猿』が海保だ。海上自衛隊は防衛省の管轄である。政治的なことは言わないでおく。

そんな祖父も、2011年4月18日(私の誕生日の翌日だった)に亡くなり、家も売却した。
出雲の男は、今京都の五条に身をやつして静かに眠っている。


私は爺さんの話ばかりする。
なぜなら爺さんっ子だからだ。
父親はチックがあり、ずっとDVとネグレクトの環境下で育ったが、爺さんズはいつも父の代わりに私に知性をくれた。
私は恵まれている。ラッキーだ。

とっぴんぱらりのぷ。これでお話はおしまい。

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