「マスク警察」と男の生きづらさ。
先日、神戸で起こったマスク着用をめぐるトラブルから傷害事件に発展した事実が報じられ、被害者のあまりに痛ましい姿を伝えるメディアに注目が集まりました。事件は1年半ほど前にある駐車場で起こりました。2020年5月、60代の男性がマスクを着けていない20代の男性にマスクをするように指摘したところ、20代男性は逆上して相手につかみかかり、首を絞めて地面に打ち付けるなどの暴行を5分程度に渡って続け、脊髄損傷、下半身不随の重傷を与えました。60代男性は今も車椅子生活を余儀なくされ、激しい痛みが襲う中で極めて不自由な生活を強いられているといいます。
加害者のこのような犯行はいかなる観点からも断じて許されるものではなく、被害者の受けている障害の重篤度からすれば単なる傷害事件というよりは殺人未遂に近い蛮行だと思います。一方でこの事実を伝えるメディアにはあまりに多数の一般市民からのコメントが寄せられましたが、その内容は意外にも被害者の行動を問題視するものが多く見受けられ、中には被害者の言動を辛辣に批判するものも少なからず存在しました。あまりに多数の過激なコメントが殺到したために、Yahooニュースでは「違反コメント数などが基準を超えた」ことを理由にコメント欄の表示が停止されています。
被害者の言動を問題視する意見は、面識のない人に対して「マスクせえや」と上から目線で注意するのは行き過ぎ、駐車場という十分にソーシャルディスタンスが確保されている場所でわざわざ近づいて注意する必要はない、マスクをするしないは最終的には個人の判断であり、場合によってはマスクができない事情がある人もいる、といった内容のものが多数ありました。中には、他人にマスク非着用を注意しておきながら、自身は知人女性と外食しているのは身勝手という意見もあり、事実認識としては一定の正当性が認められるのかもしれません。
これらの意見には驚くほど多数の共感する声が寄せられ、結果としてさらに多数のコメントが飛び交うことになりました。被害者の言動は言動として、いかなる事情があろうが決して許されない違法な暴力によって深刻な後遺障害を負うことになった被害者本人や家族の目線に立ったら、あまりにも気の毒に思えたのは私だけではないと思います。このようなコメントの連鎖には、今回の事件をめぐる個人個人の意見や見解というだけでなく、個別の現象を超えた世相的な何らかの力学が作用しているように思えないことはありません。
もしかしたら、それは若者世代の壮年世代に対する漠然とした不満が鬱積している時代の気分をいくばくか反映しているのかもしれません。コロナ禍で女性の自殺者や失業者が増えたと指摘されますが、若年男性をめぐる貧困や軋轢も深刻化しています。政府がコロナ対策として子どもがいる世帯に対する給付金を打ち出した際にも、「そもそも本当に貧困な人は結婚すらできない」といった批判をした人が少なからずいました。ひるがえって、今の60代や70代は世代としては裕福です。高度成長期に激しい競争社会を勝ち抜くタフさを求められた人たちは、少なくとも日本社会において層としては経済的強者に連なることができた人たちだといえます。
緊急事態宣言が解除された時期とはいえ、理由なくマスクを着用しないことは社会通念に反するといえ、屋外の駐車場であったとしても、そのことを指摘すること自体が悪とはいえません。ただ、その言動の中に60代世代の20代世代に対するどこか「下にみる」ような偏見が垣間見えていたとするなら、やはりその言動の意味には若干のズレが生じる可能性があるのかもしれません。ことが起こったのは関西圏の神戸です。「マスクせえや」の語感がどこまで上から目線を含むのか含まないのか、関西弁ネイティブではない私には微妙なニュアンスまでは分かりかねますが、少なくとも面識のない人から言われて心が開く言葉ではないような気がします。
20代男性がマスクをした方がいいと60代男性が考えたのであれば、たとえば笑顔で「良かったら、これを使ってください」と言って、手持ちのマスクを差し出したらどうでしょうか。相手は「うるさい」とか「余計なお世話」と切り返したかもしれませんが、この展開であれば誰がどう見ても、60代男性の方に120%正当性があるし、それを受け入れずに反論した20代男性の方の人間性こそが問題だと思うでしょう。そして、いかなる展開になったにしても、少なくとも今回のような残忍な犯罪行為に及ぶことはなかったのではないでしょうか。
法律的には、20代男性の加害行為に何らの正当性はなく、しかるべき社会的制裁を受けるべきことはいうまでもありません。その上で、面識のない人同士がやりとりする場合には、年齢や性別や社会的地位や国籍などを超えて、相手に対する最低限の敬意が必要なのではないかと思います。世の中には、藤井聡太さんのような19歳もいます。彼だけが前人未到の天才だというのではなくて、磨けばどこまでも輝く宝物のような10代、20代の人がたくさんいることも事実です。人間としてはみんな対等なわけですから、「その人」の立場に寄り添ってメッセージを送ることが、相手にとっても自分にとっても、心が素直になれる方法だと思います。
そして私が残念に思ったのは、今回の両者のやりとりやスタンスは、閉ざされた意味での「男社会」の箱に中にあるという点です。男社会には経済社会を牽引する開かれた側面と、内なる葛藤に苛まれる閉ざされた側面がありますが、後者が色濃く認められる気がします。上から目線で見下す、相手を挑発する、徹底的に反撃する、場合によっては実力行使もいとわない。これらは法律論以前に、男社会の持つネガティブな要素が凝縮されています。現場には被害者の知人女性も居合わせたようですが、体格・体力的に仲裁役になることは無理でも、せめて女子力に裏打ちされた影響力を本人に行使できなかったのか、残念でなりません。
行き過ぎたマスク警察にはある種の暴力性がともないますが、それが閉ざされた意味での「男社会」の論理に融合されたとき、今回のような惨事が起こる可能性が高まります。あくまで相手のことを慮って親切心で意見するのなら、その局面に限定しては女子力高い言動にあやかった対応に軍配があがる気がします。そもそも男性は気配りが下手でコミュニケーション力が低く、相手やまわりをケアする資質や能力に欠くことが多いものです。社会人としての経験や実績に自負を持って闊歩するのであれば、あわせて適宜女子力から学び実践する勇気も兼ね持っていきたいものです。