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女性蔑視発言と“ホモソーシャル”社会の終焉。

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が辞任を表明しました。前回もご紹介しましたが、森氏発言の意図には必ずしも悪意はなかったという意見もありますが、その内容や表現が組織委員会のトップとしては完全にアウトであったことには異論は少ないと思います。この発言自体の評価はともかくとして、これだけ社会の注目を浴びて大きな議論や批判が渦巻いたことは、やはり今という時代の位置づけを投影しているでしょう。同じ発言が10年前に飛び出していたら、もちろん不適切として批判にさらされていたとは思いますが、ここまで明確な方向性に集約された世界的な議論にはなっていなかったように感じます。その意味では、森氏発言は、奇しくも現在のジェンダーをめぐる関心や機運の高まりに対して、明確な推進力を与えたということができるかもしれません。

今回の発言、そして組織委員会などの対応に対する受け止めや評価については、人それぞれ意見が分かれると思います。ただ、問題意識として共有できる視点があるとしたら、それは人間を男性と女性に機械的に分類して、それぞれを既知の規範に当てはめ、無制約に異なる位置づけを与える方向で、思考なり評価なり議論が進められようとしたという点でしょう。この場合の性別は、基本的にはジェンダー(社会的・文化的性差)として意識されているはずですが、セックス(生物学的性差)とほぼ同義に扱われている感があります。そして、その延長線上には、残念ながらセクシュアリティー(性をめぐる多様な意識・志向)の視点はほとんど意識されていないように感じます。



現在は、「男らしさ」「女らしさ」という規範が揺らぎつつある時代です。「男は男らしく」「女は女らしく」という発想が消えたわけではありませんが、少なくとも無制約にそのような価値観で人を評価することは許されないというのが、今の世の中の最低限の流儀です。本来ジェンダーはグラデーションと評されるように、男性も女性も決してワントーンなわけではなく、人それぞれの個体差が大きいとされています。それは同一人の中でも揺らぎがあり、成長過程の中でそれまでの人生とは異なる感性と出会うこともあります。したがって、仮に会議において話が長い人と短い人がいたとして、それを「男性」「女性」というカテゴリーに当てはめて論じることは、やはり現在のジェンダー的な規範からすれば不適切であり、オリンピック憲章の理念にも反するということになるでしょう。

こうした発想の根底には、「ホモソーシャル」社会の理念が横たわっていると考えられます。ホモソーシャルとは社会学の概念で、女性や性的少数者を嫌悪する男性同士の連帯のこと。男の子に生まれた人なら、かつて少年時代、「女の子には内緒だけど・・・」とか「女子には分からないよ」といった会話を耳にしたり、関心を寄せる女の子にあえて意地悪をしたような経験を持つ人もいるでしょう。男性は、男性同士での結び付きに重きを置き、結束を強化することで、社会と対峙し成長していきます。このようなホモソーシャルには、責任感、向上心、規律性、効率性、協調性、互助性といった特長がありますが、女性を排除し、性的少数者を差別することで成立しているという根本的な問題点があります。



人間の性の決定プロセスでは、そもそもあらゆる人は本来女に生まれることを前提に胎児の原型が生成されており、一定の段階において男性ホルモンのシャワーを浴びることで男へと分化し、男の子が誕生することが知られています。その意味では、人間のデフォルト設定はすべて女性。このように考えると、男は自らを「女ではない」と自己定義しないかぎり、男という社会性・文化性を健全に帯びて成長していくことが困難だといえます。母親という“異性”から誕生し、その哺育によって慈しめられて胎児期~乳幼児期を過ごすことからしても、自ずから“同性”から生まれ育てられる女性とは、人生の初期における社会との向き合い方が異なるのかもしれません。そして、このような男性ならではの発達過程は、成人後の意識や価値観にも大きないかりを下ろしていくと考えられています。

現在では、ホモソーシャルの問題点は、さまざまな角度から指摘されています。企業社会を中心とする“男性社会”では、無意識のうちに暗黙裡に女性を排除することで成り立ってきました。それは企業内にたまたま女性が少なかったからとか、体力的に女性に不向きな仕事だったからという事情以上に、“男性社会”のホモソーシャルな輪の中に、事実上女性が入ることができなかったという側面が根強かったのです。かつて厚生労働省の事務方トップの事務次官を務められた村木厚子さんは、「自分が女性であることを意識すればするほど、男性社会では受け入れられなかった。だから女性であることを捨てないまでも、なるべく意識しないようにして、男性のように目立たない格好をして、同じように振る舞うことを心がけた」という趣旨のことをインタビューで述べられています。



性的少数者についてもそう。心と身体の性が一致しない人は必ず一定の割合以上で存在しますが、そうした現実に対する偏見は女性よりも男性の方が圧倒的に強い傾向があります。(生物学的な)同性から「自分の心の性は女性(男性)だ」と相談を受けたという場面を想像してみましょう。もちろん個人差はありますが、同性から「女性になりたい」と打ち明けられた男性の方が、「男性になりたい」と相談された女性よりも、一般的には偏見の眼差しが強いでしょう。それは、男は「女ではない」と自己定義している生き物である点と無関係ではないかもしれません。もっというならば、前代的な価値観の持ち主になればなるほど、「男性の方が(社会的・経済的な責任や立場が)女性よりも上(であるべき)」と考える傾向が強いことと、根底では結びついていると考えられます。

社会的にも、今の日本では、女性が男性の格好をしてもファッションで通用するけれども、逆に男性が女性の服装を着ることは、いまだタブーとされる場面が多いです。これはいっけんすると男性差別のようにも思えますが、男性社会の担い手の多くは必ずしも女性の格好ができないことに不自由さは感じておらず、むしろ生涯を通して男性の服装で生きていくことにプライドを持っている人も多いものです。これは「女性を排除する」ことによって男性同士の結びつきを強化しているホモソーシャルの理念が強固に働いている証左でもあるでしょう。最近では、男性ビジネスマンがみんな同じ格好をして仕事をしていることに違和感を覚える人も少なくありませんが、そこには暗黙裡のうちに同質性を帯びない女性を排除する意味合いが込められていることをもっと意識していきたいものです。



オーストラリアの社会学者ロバート・コンネルは、「ヘゲモニックな男性性」という言い方をしています。これは、男性社会内部での支配的な構造と結びついた階層構造のことを指します。ホモソーシャルな価値観について、必ずしもすべての男性が共感し体現しているわけではないけれども、そのような価値観に対して距離を置いたり反発したりする男性は、男性社会内部において抑圧されたり差別されているという発想です。ここでは男性社会の輪に積極的に異論を唱える男性は組織の論理によって排除され、女性的な価値観を帯びたり女性の格好を志向するような男性は抑圧されるという構造にあります。ジェンダー規範のあり方が問われる現在では、このような構造は従来よりも弱まってきているといえますが、いまだ男性社会の屋台骨にはどっぷりと浸透している発想だといえるのかもしれません。

森氏発言の内容を振り返るならば、その奥底には、閉ざされた「男らしさ」への行き過ぎた〝同調圧力〟が横たわっていたのではないかと懸念されます。もしかしたら、“空気”を読み、“個”を主張しない、上下関係の論理が暗黙裡に働き、それに染まらない者には「わきまえる」ことを求める、という力学が働いてはいかなかったのでしょうか。このような場面は、現在においても、日本社会の随所で見られる光景です。森さん自身にはそのような真意はなかったとしても、思わずそれを想起させるような表現が織り込まれており、その社会的地位と影響力の大きさから、奇しくも今の日本が抱える構造の一部を明瞭に提起することになったのではないでしょうか。



このような見取り図は、必ずしもある組織内における女性蔑視とか女性差別といった視点の問題にとどまらず、広く社会全体のあり方に関わるテーマだといえます。女性はもちろん男性も幸せにはなれない構図。これがホモソーシャルの論理だとしたら、時代は間違いなくその終焉に向かっている気がします。おそらく事実上は、もう性別で人を単純に白組、紅組に分ける野蛮な時代は終わっています。願わくば男もいろいろ、女もいろいろが当たり前の時代を引き寄せて、それぞれの人が華麗に違う花を咲かせ、個を発揮し合う日本でありたいものです。

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橘亜季@『男はスカートをはいてはいけないのか?』の著者
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。