森会長の“女性蔑視”発言と「わきまえない女」

2月3日の東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の発言が問題になっています。

翌日以降、ツイッターでもさまざまなハッシュタグが上位に躍り出るなるなど、ネット上でも怒りや抗議の声が広がりました。

一方で、森氏の発言の趣旨には問題がないという意見もあり、多くの閣僚が発言自体は批判しつつ続投を擁護する模様も報道されました。

この発言についてはすでに全文が起こされて公開されていますので、まずは冷静に全体像をみてみる必要があるでしょう。

これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。

冒頭はいわゆるクォーター制度についての問題提起。クオーター制度自体については、パリ市の管理職登用や米国の大学入試などでもさまざまな問題点が浮き彫りになっているので、文科省の方針に対する個人見解という趣旨は理解できないことはありません。

その上で、「女性=話が長い」「会議は時間がかかる」という森氏の考えが紹介されます。

まず、会議には時間に制約があるというのは、頷ける意見です。国会での会議でも概ね質疑時間が決められており、企業や各種団体における会議でもスケジュールが組まれていることがほとんどでしょう。大学でのディスカッションや商品開発のミーティングなど、無制約に近い環境でアイデア出しや意見集約を行った方が良い場面もありますが、一般的に多忙を極めるメンバーで構成される会議においては、物理的に開催時間の制約があるのが通常です。

主宰者やリーダー役は、それをどのようにコントロールするのでしょうか。国会では、議席数に応じて会派ごとに質疑時間が設定されます。政見放送では、公職選挙法や政令などによって発言(放送)時間が厳格に決められています。企業におけるプレゼンや会議などでも、部署やセクションなどによってプレゼン時間や発言時間の制約があることも多いでしょう。そして、最終的にリーダー役の裁量によって議事が整理されていくことも変わらないと思います。

それでは、「女性=話が長い」というのは本当なのでしょうか。これについてはさまざまな見解や研究結果があるようで、一概に結論を導くことが難しいと思います。一般的に、喫茶店や電車の中などで話に花を咲かせている人は女性が多いような印象もありますが、もちろん男性にもそうした人はいます。男性に一人行動する人が多い=無言になりがちという傾向からくる印象も働いているような気もします。

同じ話をするといっても、プライベートで楽しく雑談するのと、その道のプロとして会議で発言するのとでは、向き合い方も違うし、重みも違います。当然のことながら、普段は決して“おしゃべり”ではない男性であっても、必要な意見は毅然と述べるはず。自身の経験や知識や発想に照らして、まさに良識に従って発言するのが会議の構成員であり、その立ち位置に男女差はないのではないでしょうか。

このように考えると、女性特有の問題というよりは、議事運営・進行のあり方、リーダー役と構成員との関係、もっというなれば人間的な信頼関係の問題ではないかと思います。いみじくも、森さんは「男性どうしでは人間的な信頼関係が築きやすいが、女性とはなかなかうまくいかない」ということを、言葉を変えて言っているのだと思います。


女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。

次は、「女性=競争意識が強い」「1人が発言すると、みんな発言する」「発言時間の規制が必要」と述べています。

女性は、男性より競争意識が強いのでしょうか。実験データなどでは、単純な競争原理が求められる場面では男性の方が順応性が高いとする結果もありますが、あくまで環境の違いや個体差が大きいため、一般的な原理とまではいえなさそうです。

作家の橘玲氏は、「ステレオタイプの内面化」という興味深い仮説を紹介しています(『女と男 なぜわかりあえないのか』文春新書)。すなわち、「数学だから男の方が有利だ」「言語だから女の方が有利だ」という社会的なステレオタイプが、結果として平均化すると全体の成績にも影響するのだといいます。もしかしたら、言語タスクが求められる場面では女性は男性以上にパフォーマンスを発揮する可能性がある、としている点は、部分的には今回の発言内容と符合しているのかもしれません。

「1人が発言すると、みんな発言する」というのは、女性にもみられますが、もちろん男性にもみられる傾向です。日本は“空気”が支配する場面が多い社会ですから、「意見がありませんか」「意義ありませんか」と求めても、よほど意を決したようなテーマでなければわれ先にと発言を競うことは少ないものです。そんな中、一人が発言すると、またひとりと追随していく姿は、これまたしばしば目にする光景です。

私も講師として登壇するときに受講者に意見を求めることがありますが、自発的に手が挙げられることはまず少ないです。当てようとするとみんな目が伏せがちになるので、学校の先生の気持ちが良く分かります。目が合った人に当てようとすると、あくまで経験則上に過ぎませんが、発言してくれるのは圧倒的に男性が多いです。女性はそれでも遠慮する人が多いし、またそれにあまり違和感を持たない空気がまだ今の日本には残っているように感じます。

そんな中、勇気を振り絞って発言する女性が登場すると、それに見習おうとする女性が続く。そんな場面もありますし、これは社会一般にみられることかもしれません。良くも悪くも、今の日本社会では、男性は男性、女性は女性という“枠”で認識されています。だから、女性“枠”で発言したという事実が、その後の空気や展開にもろに影響を与えていく。その意味では、まず最初に踏み出す“勇気”が、見た目以上に決定力を持っているのかもしれません。

それでは、男性はどうなのでしょうか。女性は、女性という“枠”で行動すると、追随していく流れができる。男性は、そもそも流れなど意識しなくても自由闊達に発言できているのか。それとも、男性は女性以上に“空気”を読むことが求められ、事実上発言は制約されているのか。このテーマは、次に続くように思います。


私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

「女性は、みんなわきまえている」「だから、欠員があると女性を選ぼうとする」。

この「わきまえている」発言が物議をかもしだし、「#わきまえない女」というハッシュタグがいっきに拡散しました。「わきまえる」とはどういうことか。2つの可能性が考えられます。ひとつは、後段にあるように「的を得た話をする」ということ。もう1つは、前段にあったように「みんな発言する」ということ。あるいは、両方かもしれません。

前者であれば、たしかにひとつの見識だと思います。権威ある意思決定や最終的な利害調整が求められる会議の場において、タイムマネジメントを欠いた的を得ない意見がダラダラと繰り広げられたら、それは議事進行上の問題となり得るでしょう。ただ、それはリーダー役によって整理すれば良いことであり、そのために役職者なり役割分担があるはずです。議事整理にすら従わないような態度があれば、そもそも理事の資質にももとるといえますが、少なくともそのような事実はまったく指摘されていません。

「誰か1人が手を挙げると・・・」という文脈を素直に読むと、発言者が極めて少数な状況の中で1人が手を挙げ、それに続く人が出てきたという光景が自然な気がします。そうすると、「わきまえる」というのはその場の“空気”に従って異論を挟まない=発言をしないという意味にとることができます。だから、「みんな発言する」という表現になるわけです。発言の内容や発言時間が議事進行にそぐわないのであれば、その問題点を指摘するのはまったく正論だといえますが、みんなが発言すること自体が問題である、あるいは望ましくない、といった趣旨であるなら、これはやはり行き過ぎた意見の表明だといわざるを得ないでしょう。



全体の文脈をみていて感じるのは、おそらく「的を得た話をする」と「みんな発言する」とが、ミックスされて根底に流れているであろうこと。会議はみんなが発言するものじゃない→1人が発言するとみんなが続く→場の“空気”が変わると発言が長くなる→話が長くなると的を得た発言でなくなる。こんなイメージが想起されているのかもしれません。

だとしたら、こうした“空気”を「わきまえない」ことにもある種の正当性があると思います。読み替えるならば、多くの男性社会の担い手は、会議ではそれほど発言しない→1人が発言しても他は追随しない→“空気”を読むため長々と発言しない→手短に発言するためテーマが広がらない、ということ。すべての男性がそうとはいえないにしても、圧倒的に多くの男性たちは、良くも悪くも、こうした暗黙裡のルールに従っているといえるのでしょう。

一方で、女性は必ずしもそうではない。こうした論点は、マネジメントや労務管理の現場でも、しばしば指摘されます。これは必ずしも男性と女性の頭脳の構造や身体的差異が原因というよりは、社会における立ち位置の違い、周囲から期待される役割の違いに由来している部分が大きいと思います。思考力も言語能力も、男女で明確な違いはないのです。



今回の森発言。この底流に流れているのは、紛れもなく「ホモソーシャル社会」の原理だと思います。ホモソーシャルとは、「男性同士の“絆”」という意味で使われますが、オーストラリアの社会学者ロバート・コンネルは、この概念をさらに発展させて「ヘゲモニックな男性性」という説明をしています。すなわち、ホモソーシャルな論理に支配された男性社会の内部にも階層があり、この階層構造を強めることで、女性社会に対する“支配”を維持しているという説です。

社会で優位な地位を占めるヘゲモニックな男性性は、日本流に置き換えるならば大きな主流派を形成している護送船団であり、“空気”を読むこと、いたずらに個性を際立たせないこと、上下関係を重んじることが特徴として挙げられます。ここではある種の体育会的な流儀が良しとされ、より「男らしく」あることが求められるとともに、誇張を恐れずにいえば「言わぬが花」「沈黙は金」といった価値観が広まっていました。極端な言い方とすれば、“空気”が読めない人は、「男らしくない」のです。



その意味では、「わきまえない」というのは、少し比喩的な表現でいえば、女性差別の解消を目指す方向性のみならず、男性社会内部での多様性を獲得するための挑戦なのかもしれません。森さんの発言は、「欠員があると女性を選ぼうとする」と締めくくられているので、ご本人に悪意はないのかもしれませんし、言葉足らずな部分が多かったのかもしれません。それでも、やはり全体の趣旨からみれば、問題発言であったことは事実でしょう。

それでも、皮肉っぽくいえば、“空気”に支配された日本社会の旧態依然たる現実と国の中枢に位置する人たちの認識を端的に吐露してくれたという意味では、少なからず貢献をもたらしたといえると思います。「#わきまえない女」はもとより、「#わきまえない男」、そして「#わきまえない日本人」でありたいものです。


学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。