26 第一次護憲運動とジーメンス事件
本時の問い「桂③内閣と山本①内閣退陣の原因はこれまでとは違っていた。何が違うのか。」
第26回目の授業は大正時代の政治史を扱いました。1912年に第2次西園寺公望内閣が退陣してから、1914年に第2次大隈重信内閣が成立するまでの間に、第1次護憲運動やジーメンス事件という出来事があり、これが内閣を退陣に追い込みました。これまでとは本時の問いは「桂③内閣と山本①内閣退陣の原因はこれまでとは違っていた。何が違うのか。」でしたね。
第一次護憲運動がおきた背景
1912年7月、明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位します。このことは人々に新たな時代の到来を感じさせることになります。新たな時代とはどのような時代か、その問いに対してひとつの答えとなったのが美濃部達吉の天皇機関説と政党内閣論です。教科書では天皇機関説を次のように説明しています。
統治権の主体は法人としての国家にあり、天皇は国の元首という国家を代表する最高機関であって、憲法の規定に従って統治権を行使する。
天皇は憲法の規定に従い統治権を行使するのですから、天皇よりも憲法を上位におくことになります。ですから、天皇の権力には限界があるという主張です。美濃部の主張は大正新時代に対する国民の政治的関心を高めることになりました。
第2次西園寺公望内閣が退陣したのはなぜか
第2次西園寺内閣の時期は、財政が悪化しているのにもかかわらず、与党政友会は積極財政を求め、陸海軍は軍備拡張を求め、商工業者は減税を求めるなど、政治運営が難しい状況にありました。陸軍は2個師団増設を強く求めますが、西園寺内閣はこれを拒否します。すると陸軍大臣の上原勇作は大臣を単独で辞任、陸軍は後任の大臣を出しませんでした。軍部大臣現役武官制の規定では陸海軍大臣は現役の武官でなければいけないため、陸軍が大臣を出さないと言えば大臣は空席になってしまいます。西園寺内閣は退陣に追い込まれました。(1912年)
陸軍が軍部大臣現役武官制を利用して内閣を退陣に追い込んだのです。これは陸軍に基盤を持つ桂太郎と立憲政友会に基盤を持つ西園寺公望が提携していた桂園時代の終わりを示す出来事でもありました。
第一次護憲運動
後継の首相に選ばれたのは桂太郎です。第3次桂内閣が組閣されます。しかし桂の首相就任には問題がありました。桂太郎は内大臣兼侍従長という役職になっており大正天皇を補佐して宮中にいました。宮中にある者が政府(府中)の中心の首相になるのは、宮中と府中の別という原則を乱すものという非難の声が上がります。ここに立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄らの政党政治家や言論人が中心となって、「閥族打破・憲政擁護」を唱えて桂内閣打倒を目指す運動が始まりました。
桂太郎は天皇の詔勅を利用して反対派を押さえたり、みずから政党を結成して対抗します。しかし軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を退陣に追い込んだ陸軍に対する反発もあり、民衆も桂内閣打倒の運動を支持します。立憲政友会と立憲国民党が衆議院で内閣不信任案を提出し、それを支持する民衆が国会議事堂を包囲したため、桂内閣は在職わずか53日で退陣しました。この出来事を大正政変と言います。(1913年)桂太郎はこの年に病死しています。大正政変という出来事が相当ショックだったのでしょう。
桂太郎
桂太郎というと長州出身で陸軍軍人、山県閥を率いる元老山県有朋の後継者というイメージだと思います。明治時代の政治史は藩閥と政党の対立と提携でみてきましたが、桂は藩閥の側の人物というイメージだと思います。しかし、この頃の桂は政治家として政党を率いて内閣を組織し、内閣のリーダーシップの元で政治を進めていこうとしていました。藩閥の側の人間が政党を率いるといえば、伊藤博文の立憲政友会があります。桂太郎もまた伊藤のように政党政治をめざしていたと最近では考えられています。教科書でも例えば山川出版社の『詳説日本史』には、
桂は非政友会系の新党を組織し、従来の元老政治からの脱却を掲げて内閣を維持しようとした
とあり、さらに桂が閣議の中で元老政治からの脱却について述べた発言を史料として掲載しています。この史料については授業の中でみなさんにも読んでもらいました。
桂太郎が結成した立憲同志会は、その後立憲政友会と競い合うことのできる政党へと成長していきます。
どうでしょう?中学校の時に学んだ桂太郎のイメージとは違っているかもしれませんね。
ジーメンス事件で内閣が倒れる
次の首相に選ばれたのは薩摩出身の海軍軍人、山本権兵衛です(第1次山本権兵衛内閣)。山本内閣は、主要な大臣を立憲政友会の有力者から選びました。これにより立憲政友会を与党として政治を運営していきます。藩閥に対する反発の強まるなかで組織した海軍・薩摩の山本内閣ですが、文官任用令を改正したり、軍部大臣現役武官制を改めるなどして、官僚や軍部に対する政党の影響力を拡大する政策をおこないます。しかし、1914年、海軍高官の汚職事件(ジーメンス事件)が発生すると、民衆の山本内閣に対する抗議行動が広まります。その結果山本内閣は退陣を決意します。
桂内閣、山本内閣と連続して民衆の抗議行動が内閣を退陣に追い込んだのです。
第2次大隈重信内閣の成立
桂太朗は長州出身で陸軍軍人、山本権兵衛は薩摩出身で海軍軍人ですから、藩閥政府が連続で民衆運動によって退陣したといえます。このような状況に元老は、民衆に人気のある大隈重信を首相にします。第2次大隈重信内閣の成立です。
第2次大隈内閣は衆議院では少数勢力だった立憲同志会を与党としました。しかし、大隈人気を利用した選挙戦術などで総選挙に圧勝、懸案だった2個師団増設を成立させます。
第2次大隈内閣の時期に一番重要な出来事は第一次世界大戦への参戦です。そのことについては、次の授業で学びます。
今日はここまでとします。
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