43.日中戦争

本時の問い「偶然に起きた日中戦争が、なぜ全面戦争に発展し泥沼化したのか。」

第43回目の授業は日中戦争の開始について扱いました。時期は二・二六事件後の広田弘毅内閣から第1次近衛文麿内閣までです。本時の問いは「偶然に起きた日中戦争が、なぜ全面戦争に発展し泥沼化したのか。」でしたね。

日独伊三国防共協定

1936年、軍の強い影響のもとで成立した広田弘毅内閣は、帝国国防方針を改定し外交ではドイツとの提携を強化しソ連に対抗することが「国策の基準」に盛り込まれました。

この頃のドイツは禁じられていた再武装に踏みきり、イタリアはエチオピアに侵攻して国際連盟と対立するなど、両国がヨーロッパの国際秩序であるヴェルサイユ体制に挑戦するような動きを見せていました。

1936年、広田弘毅内閣は、ソ連を中心とする国際共産主義運動への対抗を掲げる日独防共協定を結びます。翌年にはこれにイタリアが加わり、日独伊三国防共協定が締結されました。

日本にはアメリカ・イギリスとの協調を重視する考えもあるなかで、なぜドイツ・イタリアとの提携強化へと進み始めたのでしょうか。

まず第1に急速に国力を強めてきたソ連の存在があります。

次に日本の国際的な孤立の状況もありました。

1935年には、実際に国際連盟から脱退することになり(1933年通告)、ワシントン海軍軍縮条約も廃棄されました。このように第1次世界大戦の戦勝国が作り上げてきた国際秩序から、日本は離れていくことになったのです。それにかわって、ドイツ・イタリアとの提携強化が考えられるようになってきたのです。

華北分離工作

1935年頃から、関東軍は華北分離工作を進めるようになりました。これは華北を国民政府の統治から切り離そうとするもので、華北地域の満州国化をはかるものでした。この頃、国民政府は幣制改革を実施して、中国国内の経済的統一をはかっていた時期でしたから、日本の華北分離工作は中国の統一を阻む重大な障害と考えられます。1936年、広田内閣が華北分離を国策とした頃、中国国民の間では抗日救国運動が広がっていきます。

西安事件

中国ではこの頃、国民政府と中国共産党との内戦が行われていました。中国共産党の根拠地である延安の攻撃を命じられた張学良のもとに蔣介石が来訪したとき、張学良は蔣介石を西安郊外で監禁し内戦の停止と一致抗日を要求します。これが西安事件(1936年12月)です。以降、国民政府と中国共産党が協力して日本と戦う決意を強めていったのです。

日中戦争

第1次近衛文麿内閣成立直後の1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍が衝突する盧溝橋事件が発生しました。北京に駐屯している日本の支那駐屯軍が夜間演習をしているときに起きた偶然の事件です。11日、現地では停戦協定が成立しますが、その日に近衛内閣は兵力を増派することを決定します。これを機に抗日運動をすすめる中国を懲らしめようという考えでの増派でした。日本軍は中国の激しい抵抗にあい、戦いは当初の日本側の予想を超えて全面戦争へと発展しました。ここに日中戦争が始まります。

現在は日中戦争とよんでいるこの戦争を当時は「北支事変」「支那事変」とよんでいました。実際は全面戦争なのですが、これを戦争とすると、アメリカの中立法が適用され物資の輸入が難しくなることから戦争とはよばず、宣戦布告もないままで戦争状態が続きます。

日中戦争は泥沼の長期戦へ

1937年12月、日本軍は国民政府の首都南京を占領しました。その際、日本軍は非戦闘員を含む多数の中国人を殺害する南京事件をおこし、のちに国際的に大きな非難をあびることとなりました。

国民政府は南京から漢口、さらに重慶へと移動して抗戦を続けたので、戦争は泥沼の長期戦となっていきます。

近衛声明

このような状況に対し、近衛内閣は中国各地に傀儡政権をつくり中国全体の「満州国化」をめざすことにします。そして、1938年1月、国民政府との和平の可能性をみずから断ち切る、第1次近衛声明を発表しました。

「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内、民人塗炭の苦みを察せず、外、東亜全局の和平を顧みるところなし。よって帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」

国民政府を否定する内容の声明に、蔣介石は徹底抗戦の意志を固めます。これにより戦争終結の見込みが立たなくなってしまいました。

日本では別の道を探り始めます。国民政府のナンバー2である汪兆銘は、中国共産党との合作に不満をもっていました。日本は汪兆銘と極秘に接触し、彼をひそかに重慶から脱出させて、新しい国民政府をつくらせようとします。近衛内閣は1938年11月に第2次近衛声明を発表し、日本の戦争目的が日本・満州国・中国の3国提携により東アジアに東亜新秩序を建設することにあるとしました。この声明では、「東亜新秩序の建設」に国民政府が参加するならば拒否しないとして、国民政府との和平の可能性を示唆し、国民政府内部の親日派勢力に期待します。

この声明を受けて汪兆銘は重慶を脱出します。近衛内閣は、12月、第3次近衛声明を発表し、和平の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」を掲げて親日勢力を引き出そうとしますが、1940年に成立した汪兆銘政権に参加するものはほとんどいない状況でした。

一方、重慶の国民政府は奥地にありながら、アメリカやイギリスなどからの援蒋ルートを通じた物資の援助を受けて抗戦を続けます。

日中戦争が長期化・泥沼化したことが国民生活に与えた影響については次回の授業でお話しします。

今日はここまでとします。

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AKI49|あきの日本史
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