自意識過剰と、ストリートピアノ~私なりに考察してみた、あの独特の恥ずかしさとは。
公の場の中の私的行為
今や、日本全国にあり、ブームを通り越して文化になりつつある?!「ストリートピアノ」について、私もストピを弾いた経験者として💦自分なりの考察を書いてみたいと思う。
私は去年の12月に初めてストピを弾いたのだが、もうそれはそれは想像以上の緊張感、いや、緊張を通り越して恐怖を感じた。
予想はしていたけども。
私は人よりアガりやすく、なおかつ度を過ぎた自意識過剰が悩みでもある。
それを少しでも克服して、この「自意識過剰状態」を何とかしたいと思ったのだ。だからストピに挑戦した。
かくして私が思ったのは、ストリートピアノというものの特性が、
「公の場の中に入り込んだ私的なもの」のように感じて、たとえるなら
「駅構内を、パジャマ姿で歩いてるような感じ」
に思えたのである。
どうしてそう思ったのかというと、
ピアノの練習という、ごく私的な行為を、公の場で披露するという、そのギャップというか。それが緊張の一要因ではあると思ったから。
ただでさえ、慣れない場所で慣れないことをするというのは緊張しかないですよね…
だから、ストピを弾く行為は、ホームではなく、アウェーで試合をするような感覚もあるかもしれないですね…
(誰と勝負してるんだよ笑)
発表会も緊張するのだが、発表会は、少し在り方が違うというか。
発表会は、あらかじめその予定が組まれ、人にもその旨を伝えられ、衣装を用意し、聴衆は予定を空けておくなど、弾く人も聴く人もそういうモードというか、あらかじめ心の準備ができるから「公」感は多少あるけれど、ストピはそうではなく、いきなり、自分の素の部分をさらけ出す、その思い切りのよさや勇気が必要で、それがさっき言ったような、「駅の中をパジャマ姿」的な恥ずかしさがあるのだ。
「突撃!隣の晩ごはん」をご存知だろうか。
あの、ヨネスケさんが、いきなり家に入りこんで、晩ごはん見せてください、食べさせてくださいってやつ。
(昔そういう番組があったんです)
要は、あれの逆バージョンというか。
「隣の晩ごはん」は、「私」の中に「公」が入ってきたのだけど、ストピは逆で、自ら率先して「公」の中に「私」をダイブさせるという感覚。
ストピは、「パブリックという海に、プライベートな私を、ダイブさせる行為」であったのだ。
私、これを書いていて、自分でウケてます(笑)
だって、隣の晩ごはんを引き合いに出してるってところが(だって思い浮かんだんだもん)、自分的にはツボにハマりまして。
オモロい系の記事が、やっぱ私らしいやーん!って
まあ、それは置いといて……
そんでもって、1番ウケるポイントは…
「そんな自意識過剰な自分を、周りはなんとも思ってない」という事実。
🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣
・・・そう、完全なる一人芝居ってコト!!!
でも、そうと分かっていても、体は勝手に心拍数を上げ、手は震えてくる…
今日、3回目のストピを弾いてきましたが、
やっぱり、緊張して指が浮いたり、いつもより音外したりと、通常の心理状態ではなかったのですよね。
(そして食欲も湧かず笑)
でも、初めてストピ弾いたときは、弾いたというレベルではなく、スケール(=音階。ドレミファソラシドをただ弾くアレ)さえも、まともに弾けなかったんですよね…。
なんで、これだけのことで、音外しまくるんだっていう…。でも、指が動いてくれないんです。
もう、何十年もやってきて、コレ?!
さすがに、情けなくなりましたよ…あの時は…。
でも、2回目3回目と弾くうちに、
・スケールではなく、ちゃんと、曲を弾けたこと。
・最初の散々な状態よりは、場馴れができたこと。
・何より、どんな状態でも、自己受容しようという意識になったこと。
など、自分の中では、たしかに成長は感じたんですよね。
昔の私だったら、きっと死にたくなっただろうなと思うけれど、どうしたって今の実力を認めることからしか始まらないよなと、潔く受け入れようとする気持ちになれたこととか。
・・・そして、この出来事をネタに記事書いてやろうという、この、「転んでもタダでは起きない」性根というか、図太さ(笑)
そしてこの図太さというのは、自意識過剰の裏に隠れたもう一つの自分の要素であると感じていて(コインの裏と表のような感じ)、
それは調子に乗ると何回もピアノの周りを行ったり来たりして、人より多く弾いてしまおうというような神経の図太さであるのもまた事実なのでした...
・・・そして、少し慣れてくると、弾くことそのものより「弾いたあとの身の振りかた」が気になってしまうという、新たな自意識過剰が芽生え始めてしまったのでした(笑)