『遺書』 52 薄皮一枚の攻防
今日はしんどいうえに、今回から危機的な事態を思い返して書くことになるのでなおさらキツいので、なるべくは短く区切りたい。
[前回からの続き]
避難先の物件購入で相手の不動産業者の準備待ち。
そのあいだにも、"毒親"――当時はそういう言葉自体もひろまっていなかったけど――、というか、その一言では済まない、私の父親。私の母を手にかけたこの男が、私の身にも迫りつつある。もう、分かりきっていた。
引っ越しをする前提。これは確実、絶対の選択肢。
物をほとんど処分して、家具も粗大ごみに出したり、家電も売却とかリサイクルとかに出したり、忙しかった。東京に来る前から受け継いで、そして増えてきた、たくさんの財産――棄てる。
目当ての物件を最初から購入する前提で不動産業者に掛け合っているけれど、はたして買えるかどうか、完全には分からない。だから、買えない事態に備えて"プランB"、第二・第三の選択肢も用意しておく必要がある。インターネット上でまだまだ物件探しをして、アタリをつけておく。
忙しい。
もう、避難が最優先だから、仕事にならない。
日中も、引っ越し準備と、業者の連絡待ちと、物件さがしと……。"自宅"にこもって、整理整頓やらパソコンにかかりっきりになったりやらで。
そんな平日の白昼だった。
アレが来たのは――
招かれざる客。
家のチャイムを鳴らし続け、大声で私の名字を呼ぶ(それは父親とも同じ名字だ……)。
そして――物心つく前から聞き慣れた、その幼い頃からトラウマの、そして母の仇の、ヤツの声がした。私の名を呼ぶ、あの、男の。
恐怖。
震え上がる。
ガンガンガンッ!! 数えきれないくらい繰り返し、玄関ドアが殴り倒される。
キッチンから包丁を持ってきた。護身用。
あの男以外にも、私の知らない人がいるらしい。
さすがにその眼前で私が殺されることはないだろうとは思いたかったけれど、念のためだ。それと、"その"必要があるのだということを、場にいる他人に知らしめるために。
けれどまずは、息を潜めて、居留守を使う。
普通ならばそれで、あきらめて帰る……はずだった。けれど――
向こうは玄関ドアを"破る"ことに決めたらしい。
手口は、ドアスコープを外す!
あっという間だった。
ドアスコープの穴から棒を突っ込んで、"サムターン回し"を仕掛けてくる。
向こうは、すぐそこに私が居るとは思っていないようだった。
ここで扉を破られたら、私は死亡ルート一直線!
死ぬ気で、阻止しなければならない!
失敗すると、殺人犯のあの父親に連れ戻されて、母と同じように取り殺されてしまう!
私はとっさに、"サムターン回し"をしようとする棒をつかみ、ひんまげて、押し戻した。
向こうの人間は何やら驚いて慌てた様子。
棒を引き戻してしまった。
さて、大騒ぎして公然と扉を破って侵入しようというのだから、どうやらこの賃貸マンションの管理会社の人間が来ている。先回に父親がカギをこそこそ破ろうとしたのとは違う。
どうせ、「娘と連絡がつかない」とでも言って管理会社をだましたのだろう。ヤツは、私をまず連れ戻すという戦略にしたらしい。なにせ"借主"はこの父親なのだ。管理会社を味方に引き込むのは容易い。
私はとっさに、そして興奮して、叫んだ。
帰れ!
帰れ!
扉を破って侵入してくるのは、住居侵入罪。犯罪だ。この父親ならばいざしらず、まともな一般人ならば、おいそれとやれるわけがない。
もう私は恐怖で震えながら、錯乱同然に。向こうには見えないけれど、包丁片手に。
ヤツに向かって叫ぶ。
人殺し!!
――いままで誰にも話したことのない真実。
誰も巻き込まず、誰もが平穏に暮らせるように。けどこのときばかりは、私の身にの余裕も、考える暇も、なかった。
向こうの管理会社の人間、もしかすると貸主(家主)まで居たかもしれないけれど、みんなに聞こえるように、そこの男が人殺しなことを、暴露する――
人殺し! 帰れ!
[次回に続く]