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飲み会の居場所


妻が職場の飲み会から帰ってきた。
「私はいつも会話の輪に入れなくて、ぽつんと周りを見ている感じになる。それで家に帰るといつも落ち込んでしまう」という。
ぼくも若いころはそうだった。
大勢の飲み会が苦痛でたまらなかった。そういう席になるとがぜん張り切って場を回し出す輩も、中身の乏しい馬鹿話も、楽しくもないのに追従笑いしている自分も嫌いだった。
でもね、と妻がいう。今日は家に帰ればあなたがいると思ったら、そんなに落ち込まずに済んだの。

ああ、とぼくは思い出していた。ちょうど同じことを、かつて自分も一人で家を買ったときに思ったのだ。
当時の同僚には誰にも明かしていなかったけれど、「こんな場で空気を読んで振る舞うことなどできずとも、自分は人知れず人生の地盤を築きつつある」と慰めていた。(そんな心の拠りどころになっただけでも、家を買ってよかったと思った)

今日はたまたまぼくも取引先の全社員慰労会に顔を出してきた。
今もあいかわらず大勢の飲み会は苦手で、周囲の輪には入れず遠巻きに黙って“壁の花”と化してしまうけれど、あえて気にしなくなって久しい。自分が追従笑いをしていても以前ほど自分を卑屈には感じなくなった。
盛り上がることが好きな人が盛り上げてくれればいいし、話したい人が勝手に話せばいいと思っているので、かろうじて「居られる」ようになったのかもしれない。(それは年齢のせいもあるし、今回の場合は特に社外関係者として参加している気楽さもある)

社会に出て長い時間を経て、ぼくはようやく「飲み会の居場所」を見つけられたのかもしれない。
居場所とは、卑屈にも尊大にもならず、無理せずありのままに「居られる場所」である。もしその場にいて羨望や嫉妬や軽蔑を感じさせられていたとしたら、それは真の「居場所」ではない。そんな劣等感を抱かせられるような集団は筋がわるいし、そのような場に「居る」べきでもない。

結局のところ、ぼくがかつて飲み会で感じていたのは「劣等感」だったのだろう。
同僚たちが如才なく居場所を作っていることに、気づかぬうちに嫉妬していたのだ。だから家を買ったとき、「もう嫉妬しなくていい」と思えたのだ。

結婚した今は、さらに嫉妬する必要がなくなっているし、むしろ場を盛り上げようと奮起している人たちや座持ちする人たちを頼もしく感じている。(飲み会が全然盛り上がらないよりはよっぽどましだろう)
ようやく「筋のわるい集団」も許せるようになってきたのかもしれない。

今日は早くおみやげを買って帰り、家でこんな話をしようと、そればかり考えていた。



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