すべては青い春の夢
そこには、ぼくの知らない妻が写っていた。
飲み会、集合写真、勉強会、プライベート旅行。
ぼくと出会う前の、ずいぶん昔のフェイスブックにタグ付けされた写真群をスクロールして見せてくれた。
どれも笑顔が素敵で、ありあまるエネルギーがオーラのように画像に焼き付いている。楽しそうだった。
あのころは必死だったな、と彼女は懐かしむ。たしかに必死そうだな、とぼくも思う。
意志の強そうな瞳が、すこし意外だった。
よく言えば情熱的な気の強さが、悪く言えば衝動的な危うさが、どことなく垣間見えて近寄りがたい気さえした。だからだろうか。楽しそうに笑っているのに、どこか淋しげな眼にも映った。穿ちすぎかもしれない。
その後、彼女はいくらかの挫折を経て今に至る。
ぼくは今の柔和な妻の姿が愛おしいし、リラックスした平穏に安心と喜びも感じている。
同時に、必死に闘ってきた過去も誇りに思う。(過去を「黒歴史」として封印したりせず、しっかり受け止める勇気にも尊敬を覚える)
ぼくはこれまでの彼女の人生をともにすることは、残念ながらできなかった。しかし何事もタイミングは肝心だ。もし10年前の彼女に出会っていたら、ぼくはひどく気後れしていたと思うし、彼女はぼくのことなど歯牙にもかけなかったと思う。
誰しも若いころは野心的な空気をまとっていて何ら不思議でない。ぼくだって例外ではない。特に成し遂げたい夢に挑んでいるなら、なおのことだ。
彼女はいう。
「誰かの力になれる、貢献できる、なんて思い上がりだった。私はただの刺激にしかなれない。人は誰でも、導かれるものではなく、最後は自分で自分を導くものだから」
誰かの役に立ちたいと真剣に取り組み、限りある自分の能力と向き合い、青い春の夢を持て余していたいつかの彼女を、意志が強そうなのにどこか淋しげなその眼を、どうしてぼくが愛さずにいられるだろう。できることなら写真の中の彼女をおずおずと抱きしめたかった。ここまで辿り着いてくれてよかった、もう大丈夫だよと小声で、だけどしっかり伝えたかった。