家事分担を決め事にせずにいられたら
諍いのきっかけは、家事分担だった。
妻が仕事から帰宅すると空腹を満たそうと、いそいそと夕飯を作り出す。ぼくも手伝うことを促される。
もちろん一緒に料理をすることはやぶさかでない(むしろ一緒に料理をしたいと思っている)。しかし、日によってぼくは空腹でもなく、食事はもう少し後でよいと思っていたりする。
妻は、サーカディアン・リズムに基づき、夕食は18時か19時には摂るのが望ましいと主張する。それが「時間栄養学」に依拠した「健康」の秘訣であると説く。ぼくにはいささか教条主義的にすぎると感じる上、強迫観念のようにも映る。
健康観にはもっと多様性があって然るべきだし、何事によらず正論を盾にした不寛容な姿勢に対しては少なからぬ反発を覚えてしまう。
そして、ちょっとした軋轢が生じる。
ぼくらは「家事分担」に関して、あまり決め事のようにはしたくないと捉えてきた。
家事は「分担」を割り振った時点で「タスク」になる。
タスク管理を始めれば、それは義務になる。堅苦しい。一定の強制力を伴えば、相手の「できていないこと」を咎めたくなる気持も湧く。楽しくない。負担割合をめぐって「平等」だの「不公平」だのと言い募るのもケチくさい。お互い一人暮らしも長いのでそれぞれに手慣れている家事の手順があり、そこを尊重したい気持もある。
ぼくは、家事は「やりたいからやる」という前提に立ちたいのだ。
手の空いたほうが、手を動かす。得意なほうが、自分の得意なことをする。妻が野菜を刻めば、ぼくが肉を焼く。妻が歌えば、ぼくが踊る。
二人とも家事が苦手なわけでもないので、料理も掃除も洗濯もこれで回せる。十分だと思っていた。
問題は、一方が家事を「やりたくないとき」にどうするかだ。
ルール決めをしてタスク管理をするのは手っ取り早い解決法かもしれないけれど、「やりたくないのにやらせる」形になるのはどうにも気乗りしない。
家事代行を頼む手もあるし、料理が面倒な日は外食でも出来合いの惣菜でもいい。それを手抜きなんて思わないし、むしろ自然な流れだろう。
そう話すと、「私も一人暮らしのときはそうしていたけど、今はそれをしたくない」と妻がいう。
どうして?
「それはやっぱり、いいお嫁さんをもらったなあ、と感じてほしかったから」と妻。
そのいじましさと可愛らしさが、彼女の美点だった。
そう思い出しながら、同じことをぼくも感じていたことを思い出していた。
ぼくもまた「いい人と結婚できてよかった」と妻に思ってほしかったのだ。
これは思いやりとも言えるけれど、一種の呪いでもあるのかもしれない。
どこかで「自分が考える理想のパートナー像というエゴ」を押しつけているとも言えるので。(しかし、これをエゴと呼んでしまうと、すべての思いやりがエゴになりかねない)
話を夕食時に戻す。
料理をしたくないときにはどうするのが適切だろう。
妻はいう。
料理を手伝ってほしいというより、一緒に料理をする「チーム感」がないことが寂しかった、と。
ぼくはもっとコミットメントする姿勢を示すべきだった。
そして、妻自身も疲れているなら無理をせず、鷹揚に構えてくれていいと率直に伝えるべきだった。
そもそも、自分の食欲が湧いていないことを理由に「料理に参加しない」のは、「そんなに完全に自分のペースで暮らしたいなら、一人で暮らせば?」という話に帰結してしまう。それは自分の望む道ではない。
人はいつも理想どおりにはいられない。
「思いやりかエゴか」などと小難しく考えて雁字搦めになりすぎず、情けは人のためならず自分のためにやっていることを肝に銘じながら、お互い様の精神で、それでも思いやること。
これは今後、何度も惹き起こされる問題だろう。
そのたびに自戒をこめて、今日のこの話をまた読み返そうと思う。