芯はどこにある
地球を味方に
ぼくと妻とピアニストが、3人で喫茶店にいる。
さっきから熱心に話しこんでいる。
妻の友人であるピアニストに、ぼくが訊ねる。
「ピアノはコンサート会場ごとに“実機”が変わるから、初めてのピアノで演奏するのは毎回大変じゃないですか」
「そうですね。短いゲネプロでそのピアノと“仲良くなれるか”なんですよね。会場での響き方も違うので」と彼女は言ったあと、「でも」と続けた。
「最近思うのは、楽譜が求めている音の芯をちゃんと指先が捉えられていたなら、本当はピアノや会場が変わっても関係ないはずなんですよね」
ピアニストは一息ついて控えめにはにかむ。「それが難しくてなかなかできないのですけど」
幼少期からのピアノレッスンでは、鍵盤をきちんと深くまで押すように教えこまれるので、長年の手癖がついてしまうという。それは不要な作為になる。
身につけた技術を手放して、強くもなく弱くもない音の芯の一点を捉えようと神経を研ぎ澄ませるのは途方もない難事に思えてくる。
声楽を行う妻も同調する。
歌声を出す身体ポジションも、肉体のどこにも余分な力のかかっていない状態でなくては、伸びやかに朗々とは歌えないという。理にかなった“正しい”ポジションを取れたとき、まるで脚下の大地からエネルギーを吸い上げてそのまま喉を突き抜けて声に変わるような感覚に至る。
「地球を味方につけている」というのか、地球とたしかにつながって大地の一部として存在している手応え。地中のエネルギーが巨木のような筒を通って健やかに巡る感覚。
音は正直
引き合いに出すのもおこがましいけれど、ぼくが趣味で始めたリフティングも同様だと感じた。
脚の甲でボールの真芯を捉えられると、ボールが無回転で浮上する。ボールのロゴマークをそのまま目視できる。まるで地球上に設けられた定位置に美しく展示するように。
しかし脚の当たりどころが悪ければ、たちどころにボールは醜く回転して模様が濁る。鈍い音もする。
野球でバットの芯がボールを捉えるのも、テニスラケットがスウィートスポットを捉えるのも同じだろう。動力が最も効率よく伝わり、力を入れずとも強く遠くまで運べる一点が存在する。
他の運動もきっと同様のはずだ。ランニングフォーム、絵筆の力加減、包丁の取り扱い、デザインの勘どころ。
言葉だってそうだ。「芯を食う」などと言われるけれど、「本質を突く」言葉は、無理にひねくり回さずとも、強く遠く長く届く。本質は深層部にあるので、簡単に見えない。だから表層部を越えてつながれる。山々で隔てられた村に降る雨も、地中深くまで潜れば地下水脈でつながるように。
今日も夜の公園でボールを蹴りながら、一点だけ存在しているはずの“芯”に集中する。芯を捉えたとき、えもいわれぬ快い音がする。そう。音はどうしてもこうも正直なのだろう。
きょうの一曲
正直といえば