大谷翔平の、才能を「預かる」力
35分間の会見を、じっと見ていた。
大谷翔平が世界最高額となる移籍契約で、ドジャーズ入団を発表した。
入団記者会見を見ていて、記者たちの「畏敬の存在」を仰ぎ見るような眼差しをひしひしと感じた。
大谷選手に関しては、その謙虚さとストイックさと負けず嫌いがよく知られているが、天才とは、才能を「預かっている」ことを深く自覚している姿勢なのだと、彼を見るたび思い知らされてきた。
そして、ついに日本からここまで異形の超人(スポーツ・サイボーグ)が生まれたのか、とも感慨深くなった。
井上尚弥や藤井聡太を見ていても、まったく同じ資質を感じる。
井上尚弥は「モンスター」が違和感のない愛称だし、藤井聡太は「廃人ゲーマー」という理解がおそらく最も正鵠を得ていると思っている。
才能の片鱗のある多くの者は、その才能を粗末に扱ってすり減らしていくのが関の山だし、世の中のほとんどの人は、ありもしない才能をかさ増しして見せようと虚勢を張って若い時間を終える。(あとは、承認欲求を満たすだけのアディクショナル・タイムを汲々とするうちに人生が終わる)
そこからすると、才能を預かっていることを自覚する者は本当に稀有な存在である。
なぜそれができるのかと考えたとき、もしかすると、その能力を苦労して手に入れた自覚があるからかもしれない。
人は、自分が苦労して手に入れたものや、一度失って苦労したものを過大評価する。多大なサンクコストがかかっているので、苦労の分だけ価値が増したように感じる。認知のバイアスがかかる。その結果、ことさら丁重に扱おうと注意深くなる。
入団会見で、大谷選手は「勝ちにこだわる」ための移籍であったことをいくらか強調しているように見受けられた。
これは、ぼくらのような素人が想像する以上に、本人にとってはるかに切実な問題だったのだろうと思う。
なぜなら、人の「能力」の半分くらいはモチベーションでできているからだ。
どんなに才能がある人でも、やる気がまるで湧かなくなってしまえば、やがて無能な凡人と成果は同等に陥るかもしれない。
モチベーションが損なわれ始めると、人はてきめんにサボり出す。手を抜き出す。そしてまず自分の中で衰えを感じる。次に同業者に露見する。最後に一般人の眼に映るようになるころには、もう取り返しがつかなくなっている。
才能はあっても、それを後生大事にすることのほうがずっと難しいこの世の中で、ここまで才能を預かり続けた二十九歳の青年に、ぼくは言うまでもなく言葉を失っている。