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怒りを抑えるのではなく、怒りの必要がなくなるように
ぼくはそれほど怒りやすいたちでもないとは思うけれど、苛々してしまうことはたびたびある。すると、妻はてきめんに悲しげな眼をする。(妻に対してでなく、他人に対して苛立ちを覚えたときでも同様だ)
「急にカッとスイッチが入る人が苦手なの」
ぼくもそこまで「怒った」わけでなくとも、妻は声音を聞き分ける鋭敏なセンサーを持っているので、ほんのわずかな怒気であっても察知され、カウントされる。
ぼくは異論を試みる。「人間、気分を害することがあるのは、そんなに責められるべきことなのかな」
すると彼女がいう。「まずは感情を交えずに、そこで起きている現象をフラットに観察してみてほしいの」
それから期待値の話になった。
怒りの感情は、「こうあるべき」なのに「そうなっていない」という不協和に対する反応なのだから、「こうあるべき」という期待値を下げれば、たしかに怒りは抑えられるかもしれない。でも、それは本当に望ましいことなのかな?
すると妻はいう。「そうなっていない、という現象をまず観察して、なぜなのか、と好奇心をもって探るのはどうかな」
「なるほど。その原因究明ができたとして、有効な傾向と対策も打ったとしても、その結果、期待値が下がることに変わりはないんじゃない?」
「期待値が下がるというより、変容する、という捉え方はどうかな」
「ちょっとわからない。言葉遊びに聞こえる」
「期待の種類を変えるということかな。必ずしも上下じゃなくて」
そもそもね、と妻はいう。「そうなっていない、という現象に対して行動変容をもたらしたいときに、怒りの感情を乗せることが本当に有効なのかな。かえって逆効果にならない?」
たしかにそれはそうかもしれない。「自分が不服に思っている」という感情を前面に出して威圧することで、相手の行動変容へのショートカットを期するものの、逆効果になる可能性は大いにある。(自分の感情を発散できて、自分がすっきりとする効能だけは見込める)
「怒りを抑えるのではなく(それは不自然だから)、怒りの感情を抱く必要がない状態になるといいと思うの」
ぼくもじつは、「怒りっぽい人」が苦手だった。
怒らずに普通に話せばいいのに、といつも思っていた。それなのに、自分には気分を害することだけは許し、どこかで正当化しているふしもあった。手前勝手で、傲岸なふるまいだった。(決して「愛がないから怒気を孕んだ言い方をしている」のではなく、「自分の至らなさから未熟な言い方をしている」ことは判ってほしいけれど)
その後も、心ない言い方をしてしまい、夜になってから反省することは多い。もっと他の言い方を選ぶ余裕を持ててもよかったと思う。ひとまずは自省できるようになっただけ進歩と捉えよう。自分の感情を差し置いて「現象を観察する」ことは当然ながら難しい。まだ伸びしろはある。もっと前にいく必要があると教えられている。
ここで改めて、『グレート・ギャツビー』の冒頭の箴言を肝に銘じたい。
「誰かのことを批判したくなったときは、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」