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傲慢と善良と偏見
ぼくと妻は婚活で出会い、10週間後に結婚した。
衝動的な「スピード婚」に映るかもしれないけれど、ぼくとしてはむしろ慎重にことを運んでいる意識があった。
すぐに一緒に暮らしてしっくりきていたし、お互いの両親にも紹介し終えて歓迎してもらえていたので、無為に入籍を引き延ばすほうが違和感があった。
式は挙げず、結婚指輪も買わず、知人や親戚にとりたてて報せることもせず、二人だけでするすると日常の地続きのように、ごく自然ななりゆきとして新婚生活が始まった。
そして結婚後に、いろいろなことをシェアして「答え合わせ」をしているふしがある。(「思っていたのと違った」などと感じたことはぼくはほとんどなく、それどころか「尊敬できる」と惚れ直すことや「こんなにも理解してくれる」と感嘆することがとても多い)
入籍した翌日に、こんなふうに書いている。
ずっと昔から知っていたような間柄に感じていたので(中略)とっくに夫婦だったような気さえしていた。
先日『傲慢と善良』という小説を読んで、お互いに感想を伝えあった。
「婚活」をテーマにした物語で、婚活経験のある人ならば随所に膝を打ってうなずく心理描写が見当たるに違いない。ぼくも登場人物に身近な人びとを思い浮かべながら読んでいた。
好きな科白がある。
婚活で出会った主人公二人が自分たちの出会いに自信を持てずにいるとき、老婆が言う。
「あんだら、大恋愛なんだな」
そう。
「婚活で出会う」という時点で、ふつうの生活圏内で出会う以上に、とんでもなく稀有な確率なのだ。
婚活と大恋愛、なんてまるで水と油みたいだけれど、一周まわって、もはや奇跡なのだと思う。ぼくはそう確信している。
結婚には「この人と生きていける」という思い込み(あるいは賭け)がどうしても欠かせない。
この人となら生きていける、大丈夫だ、と思うために、二人で経験を共有し、話し合いをして理解を深める過程が不可欠となる。時には受難のような試練だって不可欠かもしれない。
結婚には、二人に「共通点がある」だけではまだ不確かで、安心感という足場まで得たいものだから。
そして、愛とは「執着」のことなので、「この人でなくては」という偏見も大きな駆動力にもなる。
(小説の主人公たちは、この確信を得られずに全編を通してもがき続ける)
ぼくらは結婚して日も浅く、一歩一歩「夫婦になっている」只中にいる。
妻は「上機嫌」でいたいし、ぼくは「楽観的」でいたいので、たとえ将来の不安に対しても前向きに臨みたいと思う。
不安は、ふとした隙に忍びこんでくる。
喧嘩をすれば不安になるし、人生観や生活観が折り合いつかなければ不安になり、お金や仕事や趣味や子供の捉え方で不安になる。
これからも折々に試される。
不安なときに、それでも相手を選び抜けるか。
かつて自分で書いている。これからも何度もここに立ち返るだろうと思う。
たくさん話をしてきたつもりでいたけれど、もちろんまだ十分ではなかった。それでも、今までこんなにすみずみまで人と話して共有したことなどまるでなかった。(中略)コミュニケーションで大事なのはつくづく勇気なのだと思う。穏やかに対話する、猛々しいほどの勇気。