君が迎えに来た八月はもう来ない。(短編)
”あったらしい朝が来た! 希望の朝だ!”
山の中に響くラジオ体操の音源で目が覚めてしまった。うるさい‥。せっかくの夏休みなんだから、もう少し寝かせくれ。このままふて寝を決め込もうと思っていた矢先に、いつものあいつの声が聞こえてきた。
「あんなちゃーん!おきてー!」
あいつは、近所に住む年齢が二つ下の男の子だ。
この地域では、昔から八月の夏休みに広場に集まって、小学生がラジオ体操をするという習慣があった。朝が弱い私からすれば、”めんどうくさいイベント”で、毎年夏休みになる度に「今年からは絶対に行くもんか」と心に誓うのだけれども‥‥これだ。
夏になると、あいつが、わざわざ私を呼びにやってくるのだ。私は窓を開けて、顔を出す。
「あんなちゃん!おはよー!」
「もういいーって!どうせ、あとちょっとで終わるから!」
私が返事をすると、あいつは決まってこう言ってくる。
「大丈夫!まだ間に合うよ!」
あいつはニカッと笑った。そして「まだ『第二』があるよー!」と得意げに言うのだ。『第二』もやりたくないんだって‥。
私たちは、夏が来る度に、この不毛なやり取りをする。そして結局、あいつに根負けし、私は嫌々ラジオ体操に参加するのだった。
あれ?なんでこんなこと思い出してるんだろう?
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ミーーン!!ミーーン!!ミーーン!!シュワワワワヮヮ‥‥ミーーン!
あああ!五月蝿い!五月蝿い!五月蝿い!五月蝿い!
枕元にある携帯電話で時間を確認する。「AM7:17」と表示されていた。まだ三時間くらいしか寝てないのに!私は夜更かしした分を取り戻すために、二度寝を試みる。しかし、セミたちが私の睡眠を妨害するように、さらに攻勢を強める。ミーーン!ミーーン!ミミーーン!‥ああもう!こんなところで寝れるか!私はイラつきながら身体を起こした。
「あら、今日は早起きなのね?」
一階の居間に降りると、テレビを観ながら化粧をする母親が皮肉交じりに言ってくる。‥くそ。さっさとパートに行けよ。私は居間を通り過ぎて洗面所に向かう。とりあえず、口の中の臭いが気になるから、歯磨きでもするか。私は歯ブラシの先端に歯磨き粉を垂らし、口に突っ込む。
私は歯を磨きながら、今朝見た夢のことを思い出していた。夢の中で、私もあいつも小学生だった。そういえば、あの頃は、夏になるとラジオ体操の音楽に起こされてたっけ?
しかし、田舎だったこの町も少しずつ住宅が増えてきた。近所の空き地が埋め立てられていくと、いつの間にか「朝のラジオ体操」は消滅していた。私にとっては、あの無駄に明るい音楽とあいつの声に無理やり起こされることがなくなったから有難かったのだけれども、その代わり、ここ何年かは、これまで鳴りを潜めていたセミたちの声がやけに響くようになった。結局、住宅が増えていっても、ラジオ体操がなくなっても、山に囲まれたこの町は田舎であることに変わりないのだ。
歯を磨きながら廊下をうろついていると、壁に掛けてあるカレンダーが目に入る。そうか、もう一年になるのか。
「八月一日」。一年前のこの日、私は町役場の仕事を辞めた。
つまり、私がニートになって、今日でちょうど一年が経った。
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約一年前の四月‥‥。
私は高校を卒業してすぐに、地元の役場に就職した。母は、特にやりたいこともなく、進路が宙ぶらりんだった私を慮って、父に口添えを頼んでいた。父は仕事の関係で縁故があったみたいで、私は流されるように役場に就職することになった。当初は、まあいっか、と思っていた。それどころか、ラッキーかも、とさえ思っていた。いつの時代でも「就職難だ」とか「求人倍率がどうだ」と、テレビやネットで騒がれている印象があったので、自分は簡単に就職できて運が良いのだ、そう思っていた。しかし、それは大きな誤解だった。
田舎の役場の仕事は、はっきり言って、めちゃくちゃつまらなかった。
四月に一通り研修を終えると、五月からはそれぞれの家への挨拶回りがはじまった。形式的には住民のお困り事の聞き取りやご老人の健康状態の確認、ということだったが、その実は、ただの老人の世間話を一方的に聞かされるという、若い私にとっては”ただの地獄”だった。「この辺は昔こうだった」だの「昭和の時代はああだった」だの、朝から定時の時間まで退屈な話を聞かされた。中には、私の覇気のなさを指摘し、説教を垂れるジジイさえいた。この時期から、自分の中に鬱屈した気持ちが溜まっていくのを感じていた。
そして七月のある日、私の我慢は限界を超えてしまったのだ。
その日は、毎年恒例の夏祭りについて、公民館で会合が開かれていた。私たち役場の職員も、就業時間外にも関わらず、夜遅くに駆り出された。しかし、話し合いもそこそこに、集まった老若男女は宴会をはじめたのだった。私は、えっ?私要る?帰ってよくね?と思いながら、先輩の指示に従っておじさんやおばさんの空いたコップにお酒を注いでいた。そこで、ある老人に捕まった。よく見たら、挨拶回りの時に私に説教をしてきたジジイだった。ジジイは、お酒で気が大きくなっているのか、その時までは機嫌が良かった。しかし、私がジジイのダル絡みを適当にあしらったあたりから、雲行きが怪しくなっていった。不機嫌になったジジイは、私からビール瓶を奪い取り、空いてるコップにビールを注いだあと、それを私に差し出した。そして「これを飲んだら許してやる」と酒を勧めてきた。私は未成年なので、当然、断りを入れたのだが、その態度が気に入らなかったのか、ジジイは遂に逆上した。
「俺の注いだ酒が飲めんのか!?」
公民館に怒鳴り声が響く。それから、ジジイは、私に向かって、日頃の鬱憤を晴らすかのようにゴチャゴチャと訳のわからない不満を言ってきた。うっさいなぁ。私が憮然とした態度で黙っていると、先輩の職員が間に入ってきて、ジジイを宥めてくれる。私は、お酒を飲んで気が大きくなっているジジイとジジイの怒りを静めるために謝る先輩を、交互に眺めていた。すると次第に、心が固く無機質なものになっていくのを感じた。
ああーあ。ああーあ。ああーあ。あああーあ。
もういいや
私は、ビールが注がれたコップを手に持ち、コップをジジイの頭の位置に持っていき、ひっくり返した。目の前のジジイがビールでびちゃびちゃになっていく。周りの人間たちが話すのを止めて、私たちに注目しているのがわかった。私は、わざとその周りの連中にも聞こえるように、声のボリュームを上げて言ってやった。
「そんなに呑みたけりゃ‥たっぷりと味わいな。クソジジイ」
その一言で、会合はとんでもないことになった。そして翌日私は、役場の偉い人たちから大目玉を食った。しかし、自分だけが叱責されていることに納得いかなかった私は、それまでの鬱憤もあって、すぐさま、上司に退職を願い出た。そして、諸々の手続きを経て、七月いっぱいで、役場を辞めることになった。
時々、その一連の出来事を思い出して、自己嫌悪に陥り、落ち込むことがある。思い出して、イライラしたり、モヤモヤしたり、そしてなぜか申し訳ない気持ちになったりする。「就職の失敗」「社会に馴染めなかった自分」「将来への不安」といったネガティブな言葉やレッテルが脳裏をよぎる。 平々凡々な人生を送ってきた自分にとっては、大きな挫折に違いなかった。 しかし、仕事を辞めてから、落ち込むことがあっても、自暴自棄にならずに済んだのは、私の指導係だった先輩の言葉があったからだ。
退職まであと数日というある日、私は先輩のデスクを訪ねていた。私は一応、あの時、助けに入ってくれた先輩にだけは詫びを入れておこう、と考えていた。先輩に、あらためて今月付で退職することと、あの時、火に油を注ぐような行為をしたことについて謝罪した。先輩は周りを見渡し、ほかの職員がいないことを確認してから話しだした。
「そっか‥辞めちゃうのか。残念だな」
「本当にそう思ってます?誰も引き止めてくれませんでしたよ」
「『田舎』は人間関係が大事だからね。特に年長者は敬えってね。みんな波風立てたくないんだよ」
「‥しょーもないですね」
私は先輩に詫びを入れに来たのに、ついつい悪態をついてしまう。しかも、先輩にとっても悪口と受け取られかねないことを言ってしまったことに気付いて、すぐに「すいません」と謝った。先輩はふっと、息を吐いて笑うと「”すいません”じゃなくて”すみません”ね」と最後まで先輩らしく指摘した。私は「すみません」と言い直した。
「でも、あれは傑作だった」
「はい?」
「あなたが、あのジジイにビールをぶっかけたやつ。実は私も、いつかやってやろうって思ってたの。あの爺さんって、どこか女の人を見下してるところあるじゃない?だからさ、『偉そうに、このジジイ!』って。いろいろ頭の中で想像してたんだよ。『ビール瓶でぶん殴ってやる!』とか、それこそ『水をぶっかけてやる!』とかね。『おりゃー!』ってさ。でも、それが”実際”に起こっちゃうんだもん」
先輩がこんなに饒舌に話す人だなんて知らなかった。しかも、子供みたいななことを喋っている。私は、大人でもこんな人がいるんだ、と驚いた。
「だから、あなたのおかげで、すごくスッキリした。ありがとう」
まさか、お礼を言われるとは思わず、気恥ずかしい思いで突っ立っていると、先輩は私のリアクションが意外だったのか「可愛いとこあるじゃん」と言って、また、控えめに笑った。
その時、もうちょっとここで働いても良かったかもな、と私は少し後悔した。
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携帯電話を見ると、ディスプレイには「19:05」と表示されていた。また、やっちゃったよ。無心で歩いているつもりが、あの時のことをいつの間にか振り返っていた。
最近は、夕方から散歩に出かけることが日課になっている。しかし、時々今みたいに、一年前の出来事を反芻して、あーしてれば、こーしてれば、と考えてしまう。時間が勿体ないな。せっかくの散歩が台無しだ。私は大きくため息をついた。今日はもう帰るか、そう思っていた矢先だった。
「あれ?杏奈ちゃん?」
声のする方を向くと、”あいつ”のお母さんと目が合った。
「お久しぶりです」
「本当ねー!元気だった?」
「ぼちぼちですかね」
小学生の頃、私とあいつは毎日のように登下校を共にしていた。その関係で、あいつの家にも何度かお邪魔したことがあった。私にとって、このおばさんはさっぱりとしていて優しくして、田舎の中で、唯一尊敬できる大人の一人だった。当時、おばさんはあいつのことだけではなく、私のことも可愛がってくれていた。よく家に上げてもらって、お菓子を食べさせてもらったものだ。私が中学に進学してからは、あいつと会う機会が減るのと同時に、おばさんとも疎遠になっていった。
そういえば‥‥
「あいつは、マサル君は元気ですか?」
「ああ、優?あの子ったら、『今年は帰ってこない』って言うのよ」
‥‥”帰ってこない”? どういうこと?
おばさんは、事情を飲み込めていない私を察知して、私に衝撃の事実を知らせてきた。
「杏奈ちゃんに言ってなかったっけ?あの子、今ね‥‥」
ガチャン!っと玄関のドアを乱暴に開けると、私は外から走ってきた勢いのまま居間に飛び込んだ。夕飯を食べながらテレビを観ていた父と母が目を丸くして驚いている。「‥おかえり」と言われたが、それを無視して、私は二人に問いただした。
「”あいつ”、よく夏休みに、家に来てた、”マサル”!」
「ああ、亀梨さん家の?」
喉が乾いて上手く喋ることができない。私は食卓にあったポットを手に取り、直接麦茶を口に注ぎ込んだ。お母さんが「コラッ、はしたないからやめなさい」と言ってきたが、構っていられない。乱れた息を整える。
「『”東京”行った』って、おばさんが!」
「ああ。そうよ、四月からよね?東京の大学に行ってるって」
ねえ?とお母さんはお父さんに確認するように言う。
「聞いてない!」
「だってあなたそういう話、嫌いでしょ?”誰々がどう”とか」
たしかに、私は”田舎”特有の、閉鎖的なコミュニケーションが苦手だった。町の中で、住民の情報が共有されていることや朱に染まらない者を爪弾きにするかんじに嫌悪感を抱いていた。それに加えて、この何ヶ月もの間、引きこもりの生活をしていたから、尚更、町のことに疎くなっていた。
だからといって‥私に一言もないなんて、そんなことあるか?
「みんな言ってたわよ、『あの有名な大学でしょ?』『すごいね』って。ねえ?」
「ああ。『マサル君は藤吉町の誇りだ!』って、一時期はずっとその話題で持ち切りだったな」
お母さんの問いかけに、お父さんが口を開いた。
知らなかったの、私だけか?
背中の汗がTシャツに張り付いていて、気持ちが悪い。
次第に自分の中からふつふつと、感情が沸き上がってくるのを感じた。
悔しい!悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい!
「‥私も、東京行く」
二人が私のことを見る。お母さんが「えっ?」「はっ?」と言いながら、お父さんに視線を送る。お父さんはいつものように、私たちに巻き込まれないために、白々しくテレビに視線を向けだした。
「東京行くって、何しに?」
「何って‥仕事とか専門学校とか、何かあるでしょ?」
お母さんが呆れたように、息を吐く。
「いい加減にしなさい。大体この一年ずっと黙ってたけど、そろそろ将来のことを考えて、”ちゃんと”したらどうなの?」
私が言い返そうとした瞬間、不機嫌になったお父さんがテレビの音量を上げ出した。
まただ。この人たちはまたこうやって、私の話も聞かずに、自分たちの話だけを押し付けてくる。今度は二人への、怒りが沸いてくる。そして、私が感情のままにを言葉をぶつけてやろうと、いきり立った時だった。
テレビから爽やかな音楽が流れ出し、可愛い女の子が画面いっぱいに映し出される。私たちの視線がその女の子に集まると、彼女の語りかける声が居間に響いた。
『たった一度きりの青春を、何に捧げていますか?』
『たった一度きりの人生で、何を選択しますか?』
『たった一度きりのあなたは、何になりますか?』
『たった一度きりの夏が、あなたを待っています。』
BGMが止むと、白塗りの画面に文字が浮かび上がる。
『アイドルグループ ”小春日和” 新メンバー募集開始』
画面が切り替わり、大きなステージに立つ女の子たちが映し出されたところで、CMが終わった。
「これ受ける」という私の声が、居間にポツリと響いた。
テレビではCMが終わり、番組が再開された。びっくり映像の続きが流れはじめ、タレントがワイプでリアクションを取っている様子が流れる。しかし、お父さんもお母さんもそんなもの見ずに、私に視線を向けていた。お母さんが口をはさむ。
「何言ってんの?いい加減になさい。アイドルなんてなれるわけないでしょ。」
「やってみなきゃわからないじゃん。別に、受けるのは自由でしょ?」
お母さんは「もうお父さんも何か言ってよ」と話を振るが、お父さんは面倒くさそうに「ああそうだな」と、お母さんのご機嫌を損ねないように曖昧に返答するだけだった。こういうやりとりが、いちいち癇に障る。私の怒りは爆発寸前だった。
「それにあんた、今年二十歳でしょ?アイドルって歳じゃないでしょ?」
「まだ十九だし!さっき”二十歳まで”って書いてたから、まだギリいけるし!」
「ダメダメ!ああいうのは若い子が受けるものなの。あんたはもう手遅れよ」
そんなの‥
『「まだ間に合うよ!」』
その瞬間、あいつの声が、私の声に重なった。
いや、私が、あいつの言葉を言わされた!?
私は庭の方向に目を向けた。一瞬、”あの頃”にタイムスリップしたような錯覚に陥る。あいつが笑顔で迎えに来た”あの頃”がフラッシュバックする。しかし、実際には、当たり前だが、家の外にあいつの姿は見えなかった。
目の前では、母が依然として、何か口喧しく文句を言っていた。
でも、私はそれどころじゃなかった。
思わず笑みがこぼれる。
あの野郎‥。
”あいつ”ごときが、生意気にも、私を励ましやがった!!
私は二人に「もう決めたから」と言い残し、自室への階段を駆け上がる。
悔しい気持ちが、胸の中に広がっていくのを感じる。
でも、さっきまでの”悔しさ”とは全く異なる心持ちだった。
『あんなちゃん!起きて!』
『まだ、間に合うよ!』
あいつの声が、頭の中で反響する。
自分でもワケがわからないほど、胸が弾む。
こんな気持ちいつぶりだろう?痛快な気分だ!
自室に飛び込んで、パソコンを起動させる。検索バーに「小春日和 オーディション」と、ダダダッと勢いよく打ち込み、募集要項を確認する。
お前はもう、私を迎えに来ないんだろ?
だったら今度は、私がそっちに行ってやる!
待ってろよ、コノヤロー!
その時、私は自分が歌もダンスも未経験なこととか、自身のアイドルの素養の有無についても、全く考えもしていなかった。
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