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[小説]今晩は、君に付き合おう。
「もっとこう、何ていうかさ‥ハッピーなかんじにならないもんかなあ?」
おっ、久しぶりに聞いた。ハッピーなかんじにならないかな。これは茉莉(まり)の口癖だった。高三の文化祭の出し物でクラスが揉めた時も、大学のゼミでゼミ生の議論が白熱した時も、こいつは俺の隣でそのように言っていた気がする。彼女、基、長年の友人である茉莉はカルーアミルクが好きだった。俺は近くにいた店員さんにおかわりを注文した。
「俺と茉莉ってさ、もう十年くらいの付き合いになるのな」
「私の話聞いてる?」
お互い社会人になって、こうやって年に数回は連絡を取って会って、近況を報告している。カルーアミルクも、俺にとっては、THE 茉莉といったかんじで感慨深さをさらに深めた。
「私、傷ついてるんですけどー。傷心中なんですけどー」
「はいはい、何でしたっけ?」
茉莉は、またバイトを辞めた。今回も店長と反りが合わなかったらしい。
「だってさ、部下の仕事って『上司に確認を取ること』だったりするじゃない?”あれやっていいですか?””このやり方で間違いないですか?”って。どうしたって、聞かなきゃいけないのよ!私の独断で進めるわけにはいかないしさ。そうしたらさ、何て言ったと思う?」
「うーん、まあ‥嫌なこと言われたんだ?」
「そう!”何でもかんでも聞かないで自分で考えてやってください”って!勝手にやったら勝手にやったで”何で確認を取らないんだ!”って怒るくせに!どうしてこんなに面倒臭い人間ばっかりなの!」
俺は茉莉のこういう擦れてない部分が好きだった。
他の人は「社会で働くってそういうことだよ」とか「そんな上司どこにでもいるから」と利口なフリをして、茉莉を袖にするけれども、俺はどちらかというと日本の企業体質や上下関係には懐疑的な方なので、社会人になりたての頃、同級生と集まった時に、茉莉が周りの人間にどうしてこれほど上から目線で諭されるのかいつも不思議だった。俺は茉莉の職場環境諸々を含めていつも彼女を不憫に感じていた。
その結果、時間が経つにつれて、茉莉の前に残ったのも、俺の前に残ったのも、お互いだけだったといったかんじで今日に至る。
「正恭(まさやす)君はいいよねー。真っ白なホワイト企業、ベリーベリーホワイト企業に就職できてさ」
これは本当にその通りだった。俺は新卒で就職した会社が当たりだった。上司はアウトドアな趣味を持っている人や読書家の人がいたりして、みんなイキイキとしていた。頭ごなしに部下の意見を否定しないし、理不尽な要求を部下に課さない。社会人として順調に成長曲線を上方に伸ばしてもらえたという実感とともに、働くことについても充実感があった。
茉莉や他の同級生の話を聞いていると、まさに明と暗。というよりも暗部が多い社会の中で一縷の光に恵まれた、といったかんじだろう。
「はいはい、ごめんなさいね。どうせ、俺は苦労知らずの人間ですよー」と顰蹙を買わないように謙遜する。些細な争いごとは負けておけ。社会人になって学んだ処世術のひとつだ。
「それは違う!」と茉莉は俺の言葉を真っ直ぐに否定し、俺の思惑に乗ってこなかった。
「正恭君だって、社会に出て働いてんだもん!嫌なことも嫌なことも嫌なこともきっとあるはずだもん!」
「”嫌なこと”ばっかりだな」
「独りになっちゃったんでしょ?」
茉莉の真っ直ぐな瞳が俺を射抜いた。
「バレたか」
「わかるよ。だから私、今晩はここに来た」
おまちどうさまでーす!と髪をツンツンに尖らせた男性店員さんが、俺たちのテーブルにカルーアミルクを置いた。
大学生の頃。二十歳を迎えた俺は同級生と居酒屋に行ったり、コンビニで様々なアルコール飲料を買い込んでよく飲んでいた。最初の頃は、お酒を飲めるようになったことへの真新しさを楽しんでいたのだけれど、ゼミの面子で飲み会が開かれるようになったあたりから面倒臭い雰囲気が学部の中で流れるようになっていた。
お酒の席になると誰が何を飲んでいるかで、マウントを取ってくる奴が増えだしたのだ。「ビールは喉で味わうものだ」だとか「ワインは香りを楽しむものだ」とか、手垢のついたことを声高に語る同級生が飲みの席に少なからず出没するようになった。
特に男子学生の女子学生へのアピールは目に余った。「何杯飲んだことがある」「俺は酔っ払ったことがない」と周りに酒豪アピールするくらいなら、まだ可愛げがあった。けれど、人が飲んでいるお酒に言い掛かりをつけるような行為はさすがの俺でも看過できないものがあった。
ゼミの飲み会が開かれたその日、ターゲットにされたのは茉莉だった。
「いやいやいや、ありえないって!」と男子学生が声を上げた。
「カルーアミルク頼んだの?そんな人誰もいないよ?だってこれお酒じゃないから!四年にもなってまだこんなの飲んでるの?ありえないから!」
その男子学生はゼミでも発言力がある奴だったため、そいつに同調する者や場の空気に流されて曖昧に微笑を浮かべる者に分かれるという、きな臭い空気が貸し切った大部屋に漂った。
茉莉は冷やかしてきた男子学生をひと睨みした後、自分の鞄を持ってその場から出て行った。
その時、俺は反射的に茉莉の後を追いかけた。
「茉莉!」
居酒屋の外に出て少し離れたところにある背中に声をかける。振り向いた茉莉に、俺は駆け寄った。
「ああ‥正恭君か」
「おう、正恭君だ」
俺がわざとおどけて言うと、茉莉は「何それ?」と少し笑った。俺はその笑顔を見て少し安堵する。
「帰る?」
「うん」
「じゃあ一緒に行こうぜ」
「うん」
最寄駅に向かって二人歩き出す。同じ高校に通っていて、同じ大学の同じゼミに所属しているからといって、俺と茉莉は特別仲が良いわけではなかった。この時までの俺は茉莉がどういう人間なのか測りかねていて、学校でもずっと”ただ”そこにいて、誰にも媚びず誰とも積極的に繋がり合おうとしない茉莉が、ちょっと引っ掛かっていた、程度の認識だった。
人と違う雰囲気を持った人間がいる。大学に入ってから、俺もいろんな人間に会ってきた。ふらっと海外に旅に出る奴とかバイトしながら自分で学費を工面している奴もいたし、逆に親に学費を出してもらっているのに簡単に講義をサボる奴もいた。その誰もが俺にとっては不思議な存在だったが、茉莉の場合はそういう類の変わった奴とは違った雰囲気があった。
だから、ずっと茉莉とは何を話せばいいかわからなかったため、今日まで顔見知り程度の関係だった。
だけど、今日の茉莉のからかわれ方を見て、さすがにほっとけなくなってしまった。
二人で街灯が灯る夜道を歩く。無言の空気に耐え切れなくなった俺は切り出した。
「‥カルーアミルク、好きなの?」
「うん」
茉莉が短く返答する。
「正恭君は?」
「俺?一回だけ飲んだことがあるかな?それこそ同級生が頼んだのを一口だけもらったことがあるくらい」
俺が応えると、茉莉はまた少し笑った。
「ちがうよ。今の質問は『正恭君の好きな飲み物は何?』ってことだよ」
「ああ、そっちか」
俺は素知らぬ顔をして自分の隙を演出した。とぼけたかんじの方が喋りやすくなると思ったからだった。
「正恭君ってさ。みんなに頼られるタイプでしょ?いや、期待されるタイプかな?」
「どうだろう?」
「いや、きっとそうだよ。『貴方は何が好き?』って人にインタビューできる人は気遣い屋さんだよ」
「たしかにみんな『自分の話を聞いてほしい!』って人多いもんな。でもそれを言うなら茉莉もそうだろ?今、俺に好きなもの聞いてくれた」
俺の言葉に茉莉は少し間を置いて、俺に聞いてきた。
「正恭君はさ。人に期待されるの疲れない?」
「‥どうだろう。もう慣れちゃってる。人間ってこんなものかって。だから、疲れてるのかどうかもわからないな。でも、‥」
「でも?」
「さっきみたいなのは好きじゃない。さっきの奴らは茉莉に甘えてた。茉莉にあいつらの飲みのノリを強要してた。ああいう期待の掛け方は良くないと思った」
言葉に少し感情が込もってしまう。普段、大学の奴ともこんな話はしなかったからどういうな声色でしゃべればいいかわからなかった。
俺の言葉に茉莉は「よかった」と言った。そして、「私だけじゃなかったんだ」とも言った。
その時の盗み見た茉莉の横顔は、真夜中に浮かぶ月のように穏やかで綺麗だった。
「あのさ、茉莉って、まだ時間ある?」
「あるよ。本当はもうちょっとみんなと居るつもりだったし」
「そうしたらさ‥‥、飲みそびれたカルーアミルク、今から飲みに行かない?俺と一緒に」
俺が提案すると、茉莉が思わず立ち止まった。追い抜かしてしまった俺が振り向くと茉莉はいたずらっぽく笑っていた。
「正恭君、そんなに私と飲みたいの?」打って変わっておどけた様子の茉莉が言ってくる。
「茉莉ってそんなキャラなの?」
俺たちは愉快になってクスクスと笑いあった。
「今晩は、君に付き合うよ」
俺が言うと、茉莉は俺に追いついて来て、ふざけたかんじでガッと肩を組んできた。
俺と茉莉はこの日、親友になった。
テーブルに置かれたカルーアミルクが、自分の記憶を呼び覚ました。
「そうだ。俺たちあの時がきっかけで仲良くなったんだよな」
目の前に座っている茉莉がニコニコして、俺を見ている。
茉莉は何も応えない。
「すみませーん」先程の髪ツンツンの店員さんが話しかけてくる。
「ラストオーダーになるんすけどいいっすか?」
「ああ、すみません。これ飲んだら帰ります」
俺はテーブルに乗ったカルーアミルクを指して言った。
「‥お客さん、そういえば今日、いつもの女の人は一緒じゃないんすか?」
顔馴染みの店員さんの言葉に俺は顔を上げた。
「オレ、あの人のよく言ってたあれ好きなんすよ!『なんかこうハッピーなかんじにならないかな』ってやつ。面倒臭い客とか現場を知らない偉そうな本部の人間が店に来た時とか、マジでそうだなって思ってて」
俺が彼の顔を知っているように、彼も俺たちのこと知っていたようだ。
「だから、また今度、一緒に来てくださいよ!オレ、お客さんとあの女の人の組み合わせ何か好きなんすよ!」
男性店員は溌剌とした様子でそれを言い残すと、別の客に呼ばれてレジの方へ向かった。
「また、一緒に‥か」
俺はテーブルに置かれた一杯のカルーアミルクを眺めた。当然、俺の目の前の席には誰も座っていない。
「もっとなんかこうハッピーなかんじにならないかな‥」
俺も茉莉の口癖を呟いてみる。
けれども、目の前にあるカルーアミルクを、俺の前で幸せそうに飲む茉莉は、もう居なかった。
終わり。
あとがき。
心が通じ合った友人でも、人は変わっていくし、関係を維持するのは簡単なことではないよな、とふと思った時に思いついた話です。