[短編小説]お別れセットアップ
「私が先輩のことを殺したんです」
私の告白が、体育館の空気を揺らした。
どうせ今日で会うのが最後だ。そんな気持ちがあった。ずっと抱えていたやり場のない憤りを、私は先輩にぶつけていた。
彼女はいつもどおりの笑顔で私を見つめ返してくる。
その余裕綽々とした様に、私の怒りの火花が、散った。
我がバレーボール部の朝練は自由参加と取り決められている。そのため、強豪校でもない平凡なうちの高校で、熱心に朝練に打ち込む物好きな部員は存在しない。
私を除いて。
職員室を訪ねると、教師が鬱陶しそうに鍵を渡してくる。早朝の出勤に苛立っているのか、私のことを疎ましそうに接してくることにも慣れた。私は鍵を受け取ると、一人で体育館に向かった。
体育館の入口に差し掛かると、久しぶりに見る顔がそこにあった。私は動揺を悟られないようにすまし顔を作って声を掛ける。
「‥何やってるんですか?萌花(ほのか)先輩」
「おー!おはよう!今日も早いね!夏鈴((かりん)ちゃん)」
この人は春海萌花(はるみ ほのか)。私の一学年上の三年生の先輩で、同じバレーボール部に所属していたエーススパイカーだ。小顔で高身長の彼女のスタイルは周囲の目を惹くものがある。それに加えてポニーテールにしたセミロングの髪を揺らしながら屈託のない笑顔でプレーする姿に、校内外にこの人のファンは多い。そんな彼女は、半年前に部活を引退するまで、私と同じ、朝練を行う”物好きな部員”の一人だった。
「さっさと開けてよ。朝の時間は短いよ!」
あなたはもう、朝練する必要ないだろうが。愚痴を飲み込みながら、鍵を使って扉を解錠し、私は体育館の中に足を踏み入れる。
足を踏み入れると、フローリングと埃の臭いが相まった体育館独特の空気が広がる。朝の体育館は神聖な雰囲気を持っていて、私はこの空気感が好きだ。いつものルーティーンでコートに向かって一礼していると、私の脇をすり抜けた萌花さんがはしゃぎ出した。
「うわー!体育館、久しぶりー!」
私は、舌打ちをした。わざと萌花さんにも聞こえるようにしたのに、彼女は気にも留めない様子で、ドタドタと音を立てて走り回っていた。
二人して運動着に着替えた後、私たちはネットを設置した。バレーボールは一人で出来ることに限界がある。人数が増えれば増えるほど練習の幅が広がるので、萌花さんが引退する前は今みたいに二人してネットを張って練習をしていた。
私が無言でボールをパスすると、萌花さんはアンダーで私に返球してくる。私もそのボールを落とさず繋ぐ。対面パスは私たちの朝練のルーティーンだった。
「相変わらずっ、一人で朝練っ、やってんだっ?」
「‥‥‥」
「誰かっ、誘えばいいのにっ」
パスをしながら話しかけてくる萌花さんを無視しながら、私は淡々とボールを繋ぐ。萌花さんは半年のブランクを感じさせない動きで、私に綺麗なパスを返してくる。本当にこの人は、バレーが上手い。
私たちのチームは、いわば『萌花さんのチーム』といっても過言ではなかった。たった一人の三年生だったこの人が、プレーの面でも部活動の面でも、バレー部を支え、引っ張り、導いていた。それで半年前に県大会のベスト4まで進出することができた。しかし、私たちは負けた。敗因は明らかで、強豪校とのチーム力の差だった。ワンマンチームには限界がある、と痛感した。
「今日は何しに来たんですか?」と私は質問した。
「明日から卒業式の練習でしょ? 今日この後っ、椅子並べられてさっ、それで体育館使えるのは、今日がっ、最後だって思って」
萌花さんはパスを続けながら喋り続ける。
萌花さんの言う通りで、三年生は、数日後に学校の卒業式が控えている。その卒業式でこの人も卒業することになっている。
「あと夏鈴ちゃんと会って話せるのもっ、最後だと思ってさ」
「別に話すことなんて‥」
私は途中で言葉を飲み込んだ。
「私さ、有耶無耶にするのって性に合わないんだよね。わだかまりを残したまま卒業なんて無理だなって思って」
私はこの人のこういうところが嫌いだった。真っ直ぐで、無邪気なフリしているくせして、人の気持ちを察するところ。「萌花さんなら理解してくれる」と、みんながこの人に甘えていた。それが、私はずっともどかしかった。
だから、私だけは萌花さんに対して誰よりもフラットでいようと思った。この人に負担を掛けまい、とやってきた。
それなのに‥‥
「だったら、懺悔しますよ。最後の最後で私がミスしました」
私はこんな時でも不貞腐れたように言ってしまう。そんな自分に腹が立った。
半年前、私たちバレーボール部は県予選で、奇跡的にベスト4まで勝ち進んでいた。
しかし、迎えた準決勝はこれまで通り順調に事が進まなかった。
”萌花さんのワンマンチーム”だった私たちの高校は、試合中に萌花さんが徹底的にマークを受けたことにより、苦戦を強いられることになった。
それでも、粘り強く戦った末に、最終セットまでもつれ込んだ試合は、相手高校のマッチポイントを迎えた。
一点失えばゲームオーバー。まさに崖っぷちの局面だった。
審判の笛の音が鳴り、相手チームの選手がサーブを打ってくる。私は味方の視界を妨げないようにセッターの定位置に移動する。しかし、味方選手が上げたレシーブは乱れてしまう。
速攻は使えない。脳が瞬時に判断を下す。
ボールの落下地点に足を踏み出しながら、間接視野で相手チームのブロックの陣形を把握する。相手ブロックは、レフトの萌花さんの方に極端に寄っていた。
萌花さんは狙われている。どこか、他の選択肢は?、と迷いが生じた時だった。
「夏鈴ちゃん!」
萌花さんが私の名前を呼ぶ声が体育館に響く。
その瞬間、私は萌花さんへ向けてトスを上げていた。
次いで、「馬鹿!」と心の中で自分と萌花さんに対して叫んでいた。
相手のブロックは、ライト側のもう一枚もレフト側に集まって、萌花さんを三枚ブロックで待ち構える。これでは相手の術中に嵌ったようなものだ。
私の動揺を含んだトスは、ぼんやりとした軌道で萌花さんの元へ向かっていった。
そして、萌花さんのスパイクは、三枚ブロックにあえなく叩き落とされ、私たちの県予選は幕を閉じた。
「私のトスが近くなりました。だから、萌花さんは最後、ブロックに捕まったんです」
あの時、もっとこうしていれば、ああしていればって、何回も考えた。本音を言うと、萌花さんがトスを呼ばなければ、とも考えた。でも、そんなのはただの八つ当たりだとわかっていた。最後の最後に私のミスが出た。それが敗因だ。私のトスがお粗末だったせいで、萌花さんの高校バレー生活は終わった。罪悪感がずっと、私にへどろのようにまとわりついていた。
だから、本当に私が許せないのは、私自身だ。
「私が先輩のことを殺したんです」
鼻先がツンとして、目から涙が溢れそうになった。それを何とか押しとどめる。萌花さんはそんな私を見て、呆れたように苦笑した。
「夏鈴ちゃん」
「‥‥」
「おーい、無視かーい?」
萌花さんは手元でボールを弄びながら、いつものようにおどけた様子で、話しかけてくる。
私が不満げに睨み返すと、萌花さんは急にアンダーで高くボールを上げた。
「レフト!」
萌花さんの声が体育館に響く。
咄嗟に身体が動いた。私はボールの落下地点、ボールの送り先を想定すると、足を踏み出す。萌花さんの声に呼応して、身体に染み付いた動作が実行される。落下してきたボールに触れ、指先で押し出す。ボールは狙ったポイントへ弧を描いて進んでいく。
萌花さんは走り込んだ勢いを踏み出す足に乗せて、床を蹴った。
萌花さんの身体が重力から解放されたように浮かぶ。腕を振り、ボールを捉える。ネットを挟んだ反対側のコートにボールが叩きつけられる。
私たちは、そのボールの軌跡を目で追った。
視線を戻す。萌花さんは自分の右の掌を見つめて、感触を確かめるように、ギュッと拳を握ると、「やっぱ、最高だね。夏鈴ちゃんのトスは」と、懐かしむように呟いた。
その刹那、私の中で、萌花さんとの”二年間の記憶”が駆け巡り、一気に脳内で弾けた。そして、気付いたときには、自分の頬に涙が伝っていた。
「‥すみませんでした。あの時、最後の時、本当は、今みたいに打たせたかった、です」
素直な感情が口からこぼれ落ちる。私は自分の声が震えてしまうことを、何とか抑えようとしたけど、どうにもできなかった。
「先輩の、萌花さんの最後のスパイクが、あんな不格好なものになるなんて‥」
「夏鈴ちゃん、けっこうひどいこと言ってるよ?」
「萌花さんのスパイクは、高くて、綺麗で、誰にも負けないほど、カッコイイんです」
私が泣いて、半ば怒りながら言葉を発する様に対して、萌花さんが呆れたように笑っている。
「それなのに、私が、全部終わらせたんです。萌花さんの部活を‥私のせいで」
ずっと後悔していた。最後のトスも、負けてしまった後、萌花さんに声を掛けられなかったことも。でも、私が謝っても言い訳しても、先輩のことを困らせるだけだと思って、何も言えないまま今日まで来てしまった。
私は、この人に何も返せなかった。その事実が、自分に重くのしかかった。
依然として泣きじゃくる私に、萌花さんは一つ息を吐いた後、話し出した。
「夏鈴ちゃんのせいじゃない。夏鈴ちゃんのせいなんかじゃないよ」
呼びかける声は、今までこの人に向けられた言葉の中で、最も優しい響きしていた。萌花さんは自分が打ったボールを拾いに行きながら言葉を繋いだ。
「『最後のトスが短かった』とか『ベスト4で負けちゃった』とか、そんなことはどうだっていいんだよ。いや、どうでもよくはないんだけどさ。でも、私にとって本当に重要なのは、私が呼べば、『夏鈴ちゃんがトスを上げてくれる』。私が跳べば、『夏鈴ちゃんがボールを運んでくれる』。それが私にとって大事なことだったんだよ」
ボールを拾い上げた萌花さんの表情は本当に達成感に満ち溢れているみたいだった。その時になって、今の今までこの人の顔をまともに見ていなかった、と気付いた。
「たしかに私の高校バレーは終わっちゃったけど、私の人生は続いてる。私の中にはちゃーんと残ってて、続いてる。”感触”が」
「”感触”?」
「そう。来る日も来る日もスパイク打ったこととか、いろんなブロッカーと闘ったこととか。勝って嬉しかったこと。負けて悔しかったこと。それと、夏鈴ちゃんのトスとピタッと合った時のこと。私の中に確かな”感触”となって、ちゃんと残ってる」
萌花さんが胸の前で右手を握った。
「だからさ、夏鈴ちゃんさっき言ったじゃん? 『私を殺した』って。それさ、むしろ逆なんだよ。私は夏鈴ちゃんがくれたもののおかげで、今も生きてる。それが一番大事なこと。他のことはどうだっていい」
この人はやっぱりズルい、と思った。誰よりも強くて、優しい。こんなひねくれ者の私にも、今日までずっと向き合ってくれていた。
「夏鈴ちゃんにも、そんな”感触”が手に入るといいね」
萌花さんは、優しく微笑んで私にそう言った。わざわざこれを伝えに来てくれたのか。卒業する前に。私のことを心配して。やっぱり、この人には敵わない、と身に染み入る。
「もう、持ってます!」
私は声を上げていた。
「私も、萌花さんにもらった”感触”、私の中に在ります」
私が心の内を打ち明けたことに萌花さんは驚いているみたいだった。そして、いつものように朗らかな表情で言った。
「それは最高だね。私でも後に残る者に何かを残せるなんてさ。しかもそれが、最愛の後輩なんて」
”最愛”だなんて、この人はまた調子のいい事を言って。私の中で小さな不満がわいた。けれど、今は、萌花さんとのこういうやり取りが悪い気はしなかった。
開け放たれた扉から朝の空気が舞い込んでくる。カーテンが揺れ、体育館に浮かぶ埃と陽の光が反射して、目の前の空間が白銀に照らされる。
私と萌花さんがこの体育館で過ごしてきた朝の風景がフラッシュバックする。充実感が心の中を満たしていく。それと同時に私の中に淋しさが去来した。この人はもう、明日からこの場所に来ることはないんだ。
本当にこの人とはここでお別れなんだな、と心惜しい気持ちがこみ上げてくる。
「夏鈴ちゃん!もう一本上げてよ!」
萌花さんが部活をしていた時みたいに声をかけて、また定位置に駆けていく。その後ろ姿が、現役時代の萌花さんと重なった。
これが、本当に最後の萌花さんへのセットアップだ。
萌花さんがアンダーで私にパスをする。
私はボールの落下点に足を踏み出す。自分の指がボールを捉える感覚を味わいながら、思うことはたった一つのこと。
『ボールを、萌花さんの最高到達点へ』
ボールが、私の思い描いた軌道に乗って弧を描く。
萌花さんが力強く床を蹴り、跳んだ。
萌花さんの身体が重力から解き放たれる。空中姿勢が、いつもより美しく見えた。
私は瞬きすら惜しむように、萌花さんのスパイクを目に焼き付ける。
きっと、一生忘れない。この人にトスを上げてきたこと。この人とバレーをやったこと。この人とこの場所で出会えたこと。
学校生活なんて、体育祭も文化祭も、部活も、ただの時間つぶしだと思っていた。大人になって働くまでの、ただの青春ごっこだ、と。けど、今この時、この瞬間が、間違いなく私の人生のハイライトになる、そんな予感があった。
萌花さんがボールを反対側のコートに叩きつけ、着地しながら、自分のスパイクの出来に、大きくガッツポーズをした。
私はその様子を眺めながら、小さく自分の右の拳を握る。この”感触”は、絶対に離さない。そう願いを込めて。
終わり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?