![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/170857234/rectangle_large_type_2_902fb5d980817a7a15937c1b237f1db4.png?width=1200)
【歴史】赤田備・栄・向について
前回は、近江赤田氏の歴史について体系的に紹介をした。
↓コチラの記事。
【歴史】近江赤田氏の歴史|赤田の備忘録
そこで今回からは、近江赤田氏の人物についてそれぞれ一人ずつに焦点を当てて解説や考察を加えていきたい。
この記事では赤田備―榮―向の三代を取り上げるが、すでに備や榮については以下の記事で考察したこともあるため、向を中心に扱っていくこととする。
さて、向に関する記述は系図のみにとどまるが、それぞれ次のように表れている。
『尊卑分脈』
実備子、源次向(ムカウ)
「貞和四於阿州風森合戦討死生年廿四」
※また左衛門尉榮(サカウ)の項に「依無実子自先年以舎弟向為子」とある。
『諸系譜 第十七冊』
源次
『諸系譜 第三十二冊』
源二
実ハ舎弟
『群書系図部集 3』
源二・白江
※左衛門尉榮の項に「依無實子。自先年以舎弟向為子。」
上記のように向に関しては、通称が源次(源二)であることと、備の子で榮の弟であったこと以外はほとんど情報がない。
しかし唯一、『尊卑分脈』に生没年の手がかりとなる記述があり、1348(正平三/貞和四)年に二十四歳で没したとするものである。これが正しいのだとすると、その生年は1324(正中元)年となり、観応の擾乱で佐々木道誉の身代わりとなって討死したとされる榮の生年1302(乾元元)年とは22年の差があることになるので、やはり兄弟ではなく親子と考えるのが自然であり、討死したのは備であったと考えることができる。
ただし、向の生没年をこれで確定させるのはやや早計であると思う。
というのも、向に説明される記述と似たようなもの、あるいは同じものが以下のような別の人物に確認されるからである。
『諸系譜 第十七冊』
孫十郎應
「貞和四於阿州風森之合戦討死年廿四」
『諸系譜 第三十二冊』
孫十郎/兵衛尉應
「正平三年河内国風森討死」
後醍院北面/蔵人照
「正平三年風森合戦討死」
以上のように、同年に同じものと思われる戦で討死している人物が複数確認できるのである。南北朝時代には、その動乱の影響から事跡の相違が見られることは以前も述べたことであるが、いずれの人物が討死したのかについては断定することは難しい。
ただ、この時の佐々木道誉の動向を見ると、1348(正平三/貞和四)年2月、「大和風森巨勢河原水越」において道誉は南朝軍と戦い嫡子・秀綱と共に負傷、次男・秀宗は大和国水越合戦で戦死していることが分かり、激戦が繰り広げられていたことは間違いない。
「風森合戦」がこの合戦のことを指しているのであるとすれば、それは北朝・佐々木道誉に属していた向(あるいは兄と思われる照)のことであるのかもしれない。