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【歴史】『江源武鑑』と田中政三②
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【歴史】『江源武鑑』と田中政三①|赤田の備忘録
正史の定説を誤らせた理由
田中は、『江源武鑑』が「偽書」とされるに至った経緯についても複数の段階と理由があると分析しており、その第一の根源は佐々木義忠の書いた佐々木氏系図であるとしている。
・佐々木義忠による偽系図
幕府に旗本として仕えた人物に、箕作義賢(六角承禎)の次男・義定の孫にあたる義忠がいるが、彼が系図を提出する際に、自らを佐々木氏嫡流と称し、本来の嫡流六名を抹消したことがきっかけであると田中は考えている。
しかも幕府はこれを子細に吟味せず、そのまま『諸家譜』に取り上げてしまい、また後に幕府が『寛政重修諸家譜』を作成した時にも、その誤りには気づかず再登録をしたために、これが幕府公認の佐々木系図となり定説となったのだという。
さらに沢田源内が水戸家に仕えようと系図を提出した際、運悪く箕作義忠が佐々木系図を検分したために、自らの系図と異なるものを見て沢田源内を弾劾し、水戸家に沢田の悪評を言って彼の仕官を断念させた。この事件が起こったために、沢田は自らの信念をもって佐々木の系図その他をまとめたものが多く出版したが、これは全て偽書・偽系図と評されるようになってしまったのだという。
・建部賢明の批判
それに加えて、旧箕作派の家臣であった、旗本・建部賢明の『大系図評判遮中抄』の存在も挙げている。彼は上記の箕作義忠と親交があり、かつ本人が愚直な性格であったために、従来義忠から聞かされていた沢田源内像を強く信じ、悪口雑言を尽くして彼を同書の中で酷評したのだという。
しかし、建部の主張にはいくつかの矛盾点が存在していることを田中は指摘している。
例えば、同書は源内死去の36年後に書かれたものであり、「自分(建部賢明)があと30年早く生まれていれば直接沢田に(文句を)言うことができたのに」という、会ったことがないと分かる旨の文章を残しながらも、まるで自分が直接見たかのような記述をしていることや、
また、沢田を「素性知らざる者」としながらも坂本雄琴村の百姓・澤田喜右衛門の子と書いており、当時名字のなかったはずの村人に名字があり、しかも忍城主の代官となった人物であるとしているので、これは裏を返せば、沢田父子については素性がはっきりしていたからこそ代官に採用された訳であり、これらの記述には辻褄が合わないとしている。
(同書、351頁。)
また、これに付け加えて、沢田源内は以下
・水戸侯
・青蓮院
・東福門院の家宰
・飛鳥井雅章
などの公家・徳川家に連なるような第一級の高貴高官に仕えていたが、その性格の悪さや悪事のためにこれらの家を追い出されたことが同書に書かれているというが、これらの人々に素性知れぬ土民の子が直々に召し仕えられていたとは、当時の常識からすると到底考えられないことであり、また悪事を働いたことが仮に真実だとしても、生類憐みの令などの厳罰を行った時代に、何のお咎めもなしに見逃したとは考えにくいとして批判を加えている。
(同書、359-361頁。)
以上の理由から田中は、「『大系図評判遮中抄』こそ全く虚偽、虚構の著書だと言いたい。」と主張をする。
・『蒲生郡志』が追い打ちをかける
また田中は、沢田偽書説の更なる原因として、自治体誌『蒲生郡志』の存在を挙げている。
というのも、この『蒲生郡志』は滋賀県の歴史を読み解く際には必須とされる地方誌の一級品と見なされていたために、同書が「沢田偽書説」を採用していることが読者に先入観を与え、この説を人口に膾炙させる要因の一つとなったのだとしている。
(同書、355頁。)
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