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【歴史】越後赤田氏の歴史
ここまで、すでに赤田渡辺氏について細かい部分の考察をしてきたが、そもそも赤田氏とは一体どのような一族であったのか、今回は越後赤田氏の興りから滅亡までのおおまかな歴史を紹介しておきたいと思う。
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一字名の紹介でもすでに述べたように、赤田氏は、嵯峨天皇の皇子・源融より興った嵯峨源氏を本姓とし、その後裔で頼光四天王として一条戻り橋で鬼の腕を切ったとして知られる渡辺綱の子孫でもある。
※ただし奥州藤原氏の一族、赤田次郎泰忠を祖とする説もある。
この綱から数えて七代目にあたるのが渡辺了という人物であるが、了は1185(文治元)年の源平合戦の時、源義経に従って摂津国渡辺村を始めとする旧領を安堵されており、1196(建久七)年には越後国刈羽郡赤田村の地頭職に補任され赤田渡辺氏の始まりとなっている。
※あるいは了の父・渡辺定の頃に越後国赤田保地頭職となり、了が相続したともいわれ、明確でない。
その子・恒の時、1247(宝治元)年の三浦合戦や、同年冬には京都大番役として3ヶ月の間在洛していることが史料に確認でき、その子・等は地頭職を相続したが、この時に地名をもって家名とし赤田氏を名乗ったという。等は足利尊氏に属して1334(元弘3)年、京都六波羅で討死したと伝えられる。
等には6人の子息がいたことが系図から確認でき、同時期の南北朝の動乱からその事跡や生没年には相違が見られるが、五男・告が赤田保地頭職を継いだとされる。またこの時代、赤田渡辺氏の多くは南朝方についたといわれるが、系図には足利直義に仕えており実態はよく分かっていない。
ただ、四男・備は近江の佐々木道誉に仕え、『太平記』によると、1335(建武二)年の中先代の乱(相模川の戦い)の際、家臣の筆頭に赤田氏があり、1351(観応二)年の観応の擾乱の際に起こった近江蒲生野合戦では、道誉の身代わりとなって討死していることから、重臣的な位置にあったと推測でき、また北朝方であったことが窺える。
その後、南朝方であった赤田氏は北朝の上杉家臣の斎藤氏によって越後赤田城を攻められ滅ぼされ、越後における赤田氏は断絶することとなった。
※赤田渡辺氏が南朝についたのは、かつて同族であった越後国瓜生保の地頭、杣山城主・瓜生判官保に呼応したためと言われる。太平記にも佐々木判官兄弟が討死した時に赤田の他に瓜生の名前も見られることから、同族内でも分かれて争っていたであろうことが窺える。
※滅びた時期は不明であるが、幼くして父を亡くした等の三男・納の孫・信が赤田氏に養育された後、越前の斯波氏の元へ訪れるのが1362(貞治元)年とあるので、少なくともこれ以降のことであると考えられる。信はその後、九州探題の今川了俊について下向し、その後、大友親世に仕えて豊後渡辺氏(真那井渡辺氏)の祖となった。また、等の六男・長の系統も九州に下向したとされ、子孫は堀氏を名乗ったという。立花氏の家老で道雪七家老の第二座・堀祥がその後裔かと思われる。
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【歴史】近江赤田氏の歴史|赤田の備忘録