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今日は何の日

 私にはASD(自閉スペクトラム症)という障害がある。所謂「発達障害」と呼ばれるものにカテゴライズされる障害である。
 最初に説明しておくと、これは生まれつき脳みその作りが大多数の人とは違っている為に生じている障害である。親の育て方がなっていなかったからとか、食べ物がよくなかったとか、化学物質のせいとか、そういうことに起因するものではない。

 私の人生の異様な上手く行かなさの原因がこの障害に起因していたとわかったのは、僅か10年足らず前の話である。要は大人になって、他の病気になってからわかった。
 私と同年代から上の人だと、いまだに「うそ!全然そんな風に見えない。だって、自閉症の人ってパッと見で障害があるってわかるし、知恵遅れがあって、学校も特別な所に通ってたはずだもん。」そんな見識の人がいる。
 近年医学的な研究が進んで、知的障害を伴わない「自閉スペクトラム」の範疇に入る人が相当数いることがわかってきた。そのことによって、子供の頃は「ちょっと変わった普通の子」とされてきた人達の生活や人生の困難さが、障害に起因するものであることがわかってきた。これが現状である。

 発達障害には、ASDの他にADHD(注意欠陥・多動性障害)やLD(学習障害)がある。先日まで放送していたドラマ『俺の家の話』で取り上げられていたのはこっちだったが、同じ発達障害にカテゴライズされているとは言ってもASDとは特徴が異なっているので、今回はこちらには触れずに話を進めようと思う。
 発達障害についての詳しいことは、こちらのサイトをご覧になって頂ければと思う。

 私の場合、前述のように子供の頃は障害があるとわからず、ずっと地元の公立校の普通学級に通った。だが、母親は幼稚園に入園する前からずっと「この子は普通の子ではない」という認識を抱いていたという。
 ハイハイをする時に片足を使わない。歩き始めてからは、何故か爪先立ちで歩いている。言葉に遅れはなくよく喋るが、電車に乗っていると車窓の景色を見ながら、一方的に話している。公園に遊びに行っても、集まっている近所のお友達と遊ばない。すぐ「帰りたい」と言って、帰るとキティちゃんやキキララの小さな人形を使い、空想の世界で一人遊びしている。新聞に載っている天気図が好きで、毎日見ている。たまたま親が貰った東北・上越新幹線の到着メロディーのレコードが好きで、毎日繰り返し聴いている。
 ASDの子をお持ちの親御さんは「ガチだね」と感じられると思う。そう、今の基準で言えば結構ガチなのである。
 主治医からは「もし今の時代だったら、保育園とかで「ちょっと気になる子がいます」って言われたかもしれないね」と言われた。そうだと思う。
 だが、当時の医学や教育の世界では「自閉症には知的障害がつきもの」というのが常識だった。私は、かなり早い段階で文字を読んだし書いた。絵を描くのも上手だった。親戚からはいつも「賢い子」と言われた。小学校入学後は、成績も良かった。よって「ちょっと変わった普通の子」であると判断されたのだ。

 自分の記憶で一番古い「ガチだな」エピソードは、幼稚園に入園して間もない頃のことである。
 同じ組の子と一緒に、ゾウのすべり台の上で輪になって話をしていた。みんなあれこれおしゃべりをしているのだが、私は一体何を喋ればいいのかさっぱりわからなかったので、みんなが喋っていることをそっくりそのまま返した。すると、気の強い子が怒ってこう言ったのである。
 「人の言うことマネしちゃいけないんだよ!」
 ガーン!というショックと共に私は傷ついた。えっ、幼稚園って人の言うことマネしちゃいけないのか。なんてイヤな所なんだろう、幼稚園!そんな感じのことを思ったような記憶がある。とにかく、ショックだったことはよく憶えている。
 これもASDの子を育てている親御さんは納得の行く話だと思う。「ああ、おうむ返しね」。ASDの子の典型的な特性だ。

 私の言い分も少し聞いていただこう。
 私は集団生活の中で、どう振る舞ったらいいかわからなかったのだ。なので、周りの子達がどんなことをしているのかを観察し、真似た。おしゃべり以外にも、靴を下駄箱に入れる時もそうだったし、カバンを取りに行く時や列に並ぶ時もそうだった。そんな細かなことも、他人を観察して真似なければやり方がさっぱりわからなかったのである。
 それは小学校中学年くらいまでずっと続いた。体育の時間に「10秒で校庭に集合!10、9、8…」と指示され教師がカウントダウンを始めても、私は「あっ、みんな急いでるぞ。先ずは下駄箱に行って上履きを脱いで靴を入れ替えて、履いて紐を結んで…」ということを観察し、頭の中で整理しないと理解出来ないのである。結果、いつもビリだった。今でもやることなす事、とにかくノロマなのは多分そのせいだ。
 数年前に、米津玄師さんのインタビューを雑誌で読んだ。すると彼も子供時代、全く同じようなことをしていたと語っていたのだ。「いた!同じ人いた!」と、感動にも似た気持ちで一杯になった。
 彼は更にそれより以前のインタビューで、ASDの範囲に入る高機能自閉症であると語っていたそうだ(その音楽誌は今や高額で取り引きされており入手困難…)。

 話を戻すと、そんなこんなで幼稚園時代の私は登園拒否になってしまったのだが、当時の担任の先生が本当にいい先生で、毎朝大泣きして登園する私の話を真摯に聞いてくれた。気にかけてくれたし、耳を傾けてくれた。そのお陰で、私は卒園まで幼稚園に通うことが出来た。
 今でもその先生とは年賀状をやり取りしている。あの頃お姉さんだった先生もお孫さんが出来て、今はもうおばあちゃんだ。

 他人を観察して真似ることでしか社会生活が送れないとか、人とコミュニケーションすることに対する欲求が乏しいとか、身体の使い方が何だかおかしいとか、ちょっと風変わりなことに異様なこだわりと執着を見せるとか、そういった特性は今でも変わらない。家から一歩外に出ればキョロキョロキョロキョロ周りの様子を窺ってばかりいるし、ツイッターやこのnoteだって、別にリプとかコメを貰うことを目的としていない。テレビも首を捻って斜めに見るし、そこまで有名じゃない音楽やローカル放送が大好きだ。
 ASDは、治るものではない。ゆりかごから墓場まで、特性は一生変わらないと言われている。本屋の育児書や医学書のコーナーに行くと「食べ物で発達障害は治せる!」みたいな触れ込みの、怪しげな本がズラッと並んでいるが、そんな医学的根拠は何処にもない。
 うまいこと折り合いをつけて、ちょっとヘンな自分を自分で認めてやって、付き合っていくしかないのである。

 以上のことを踏まえて、私がよく出くわす「こういうの困るんだよな」という事例を幾つか挙げてみようと思う。

 (1)「可哀想な人に親切にしてあげてる私って、何ていい人!」

 これを発動させる人というのはASDに限らず、身体や精神に障害のある人や何らかの病気を持っている人に対して、もれなく発動させる場合が多い。
 まず、障害がある人のことを「可哀想な人」と定義しているのが困る。いや、別に可哀想じゃないです。お陰様で美味しくご飯やおやつも食べれてますし、雨風しのげる所で、あったかいお布団で眠れてますし、好きなモノに囲まれて生きている幸せなオタクです。そう思ってしまう。
 要は「私って何ていい人!」と思いたいが為に、自分の中で誰かを「可哀想な人」に仕立て上げ、その人に親切に優しくしてあげることで自尊心を満たしているタイプの人なのだと思う。やめていただきたい。

 (2)「発達障害の人って天才なんでしょ?」

 非常によくある思い違いで、これもとても困る。
 これに関しては、メディアの責任が非常に大きいと思う。一時期『金スマ』や『世界仰天ニュース』などのバラエティーで「発達障害の天才○○!」みたいな事例が大々的に取り上げられた。そのイメージなのだと思う。
 発達障害の人全員が天才な訳ではない。
 前述の米津さんのような例もあることにはある。だが、米津さんとて「発達障害のせいで才能がある」訳ではないと思う。障害は関係なく彼には音楽や絵の才能があり、常人がしないような努力をしてきたのだと思う。
 障害=才能という思い込みは、とても失礼だ。
 確かに記憶力が突出していたり、何か一つのことにのめり込んだり、感覚が鋭敏だったりという特性がある人は多い。その才能が音楽だとか絵だとか、文才だとか、数学だとかプログラミングだとかいう方向に出ていると、マスメディアというのは面白がって取り上げたがる。だが、全く役に立たない方向にその才能が出ている人の方が多いのだ。単なる「オタク」に終始している人の方が遥かに多い。
 発達障害について理解したいのであれば面白おかしく仕立て上げられた民放バラエティーよりは、Eテレの『ハートネットTV』や『バリバラ』などを見てもらった方がいいとここに記しておく。

 (3)「頑張って!頑張れば、絶対に克服できる!」

 非常に困る。幾ら頑張っても克服出来ないから困ってるんですよ、と言いたい。
 前述のように発達障害は生まれつきの脳の障害で、基本ゆりかごから墓場まで、である。星飛雄馬や桜木花道のように、血の滲むような特訓をしたから出来るようになるというものではない。
 病気や事故後のリハビリを経て身体の機能が回復した、という「身体障害者」の事例と混同している人も多いのかなと感じる。「障害者=身体障害者=車椅子」なんていうイメージを抱いている人も、いまだに多い。
 だったら考えてもみてほしいといつも思ってしまうのだが、駅の階段の前で車椅子に乗った人に「頑張って!頑張れば絶対のぼれるから!」なんて言う人はいるのか、という話である。そこは駅員さんを呼ぶなり、エレベーターを案内するなり、そういうことするよね。
 障害だけではない。病気の人、災害に遭った人、何かの困難に直面している人。何かにつけて「頑張って」に終始するのはもうやめにしないか、といつも思う。

 (4)「みんなで一緒にやれば絶対楽しいから!」

 ASDの大きな特徴として「コミュニケーションの不自然さ」や「社会性の障害」が挙げられる。前述した私の子供時代の話のおうむ返しや人真似、友達と遊ぶよりも一人遊びを好む、などが典型的なそれである。
 これも大人になったからとか、何か訓練をしたから治るというものではない。相当の人が無理をして好きでも得意でもない、出来れば避けたいあれやこれやに付き合っている。
 何かの集まりや飲み会になると「人数多ければ多いほど楽しいよね!」と言って人数を増やそうとする人がいる。私はこれに遭遇すると「うわあ困ったなあ」といつも思う。何故なら私はメンバーが4人以上になると、何をどう喋ったらいいかわからなくなってしまう。いまだに幼稚園の時の、ゾウのすべり台の上と同じなのである。
 どのタイミングで発言すればいいのか、それとも黙っていればいいのか、全然わからない。変なタイミングで発言すると、会話の流れを断ち切ってしまって「申し訳ないことしたな」と毎回のように思う。逆に黙っていると「大丈夫?」と気を遣わせてしまったりする。ぐったり疲れてしまい、その後数日間は使いものにならない。寝込んでしまう。
 なので、大人数の集まりや飲み会には極力参加したくないのだ。情報を処理出来る上限が3人までなのだ。
 世はネット社会でSNS社会だが、グループLINEもやはり苦手である。やり取りが無限に続くリプ返しも苦手である。
 最もストレスがかからない状態は「一人でいる」ことなので、敢えて好んで一人を選択していることもよくある。一人旅、一人カラオケ、一人カフェ、一人ラーメン。とにかく一人で行動していることが多い。
 だがよく気がつく人、優しい人、或いはお節介な人が一人でいる私に気がつくと「どうしたの?一人で。こっちおいでよ」「一人じゃ寂しいでしょ」「なーに一人で黄昏てんの〜?」などと誘ってくれたり、或いは絡んできたりする。
 いえ、お構いなく。一人が好きなんです。一人の方がいいんです。

 (5)「冷たい人…」

 一人でいるのが好きだったり、LINEをあまりしなかったり、密なコミュニケーションを好まないので人間味のない人、冷たい人だと思われることが多い。これに関してはもう、しょうがないなと諦めている。べったりくっつきたがる人と仲良くなっても、結局ストレスになってしまうし。

 (6)「全然そんな風に見えない!全然普通だよ!」

 かなり努力して普通に見えるようにしています。大変です。

 (7)「私は障害とか、すごく理解があるから」

 これを自ら口にする人ほど、何もわかってないなあという人であることが多い。だったら「は?発達障害?何それ」という人の方がまだいいな、と思ってしまったりもする。
 障害の有無に関わらず、「私はあなたのことをよくわかっている。理解している」というのは思い違いであることが多い。自分自身も含めて、常に「何もわかっていないのかもしれない」と念頭に置いて人と接するのは大事なことだなと思う。

 長々と読んでいただき、ありがとうございました。
 今日は世界自閉症啓発デーだそうです。


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鴎
photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)