A4の安心感の話。
A4サイズ。
そう紙の大きさの話。
学生時代は、ノートをはじめ、B5サイズが多かった気もするが、
その後はA4サイズを極々自然に活用している。
A判、B判の歴史は、昭和の初めころの話らしい。
A判はドイツ発の国際規格。
B判は日本の古くからの紙規格に倣った日本独自のモノ。
最近めっきりB版というものは使わなくなった。
目にするのは、子どもの学校ものか、新聞の折り込みくらい。
といっても新聞も普段見ないけど。
自分発の文書用紙は間違いなくA判で作るし。
そしてその割合は98%がA4用紙。
事務所のプリンターも、A4しか出ないようにしちゃったしね。
そういえば一時期、A4用紙1枚にまとめる技術の本をよく読んでいて、
作成する書類を如何に1枚で、見栄え良く、要点を抑えてまとめるかに
情熱を燃やしている時期があった。
上下左右の空白の割合、レイアウトの定型化、文字バランス。
今となっては、なぜそこまで1枚にこだわったのか、微妙ではあるが、
こだわりやマイルールとして、それはそれで楽しかった。
ところで、今日の本題。
私たちは、いや、私は。
A4用紙の安心感、安定感に甘えすぎてはいないだろうか?
とふと感じたのだ。
紙の安定感?甘える?何言ってんだ?と、
もう一人の自分はいっていますけど笑
多分。いや私個人に関して言えば間違いなく、
私は
「A4用紙からはみ出すことができなくなってしまっている」
のである。
A4の紙を1枚渡されて、
自由に何かを書いていいよ。と言われたら、
A4用紙の中にしか書けない。
下の机には書けない。
当たり前なんだけど。
当たり前なんだろうか。それが今日の話。
多分、昔は書けた。
そして怒られた。のだろう。
もう記憶が無いくらい小さい頃の話だし、
皆そこを矯正されて生きてきたのだろう。
そして自分の子供たちも、そう矯正してきた。
学校でも枠の中に書きなさいと言われ、書く練習をした。
その結果、枠の外にはみ出さない人、はみ出せない人が、
量産されているのである。
「A4用紙があって、そこに何か書くのに、
枠の中に書くのは当然ではないか。」
そう。
枠の中に書くのが当然なのだ。
そして僕らは「枠を無視して書く」という能力を失ってしまったのだ。
更には「枠の無いところに書く」ということに、恐怖すら覚えるようになってしまっているはずだ。
日常生活において、「自由に書いていいよ」と言われたときに、
そのターゲット、書く対象物、キャンバスは、ごく自然に、暗黙で指定されている。
「自由に書いていいよ」の前には「この○○に」が隠されている。
そして皆、それを察している。
そして「この〇〇」の範囲において、自由に書いている。
しかしこれは本当の自由だろうか。
「この○○」を察することが、果たして良いことなのだろうか。
A4用紙を渡されて、A4用紙を無視して書くことが、もう私にはできない。
多分、今の時代、それができる人は一部の芸術家くらいだろう。
それは変わった人。という見方をされるはずだ。
しかし、同時に「自由を失っていない人」でもあるはずだ。
僕らは枠の中にしか書けない体に改造されてしまったのだ。
自由を失ってしまっていたのだ。
恐るべしショッカー。
本当の自由な発想。
何かを壊すときに、必要なのは枠に囚われない事なのだろうが、
それが如何に難しいか。
その恐怖と安心感の狭間で、今日も枠内で文章を量産している。