俳句を詠んでおたよりする
今日は、お便りの最後に俳句を詠んで差し上げたおたよりに丁寧なご返事をいただいた日でした。
そのご返事に俳句を詠みました。
大幅に書き足してNOTE用に書き直してみました。
お便りありがとうございます。
ノババックスも4月下旬に承認されるそうです。
世の中変わりそうです。でももう何も接種する必要はありません。
俳句、どうぞ心が向くままに詠んでみると楽しいのではないでしょうか。
私は今は亡き宇咲冬男先生に手ほどきをいただきました。
下の方にある訪ドイツに高齢の先生のサポート医としてご一緒しました。
その際に優仁という俳名をいただきました。
先生が、突然マッターホルンに向かうバスの中で
「大和田くん、医師にとって何がいちばん大切なんだい?」
と尋ねられました。空はなんで青いの?みたいに問いは簡単で答えるのが難しい質問です。
私は、少し悩んでこう答えました。
「その人に一番良いと思う誠意である「仁」の心を忘れずに、それを優しく実現して施して差し上げることだと思っています」と答えました。「まず、思った良いことを実現する事故が起きないで医療を行う技術を磨く必要があります。そして、その元になる思いが患者さんにとって良いものでなければマッドサイエンティストになってしまいます。医療に「しろうと」の人々には医師の悪行を見破るのは難しいので、私たちが「仁に仕える」ことを忘れてはいけないと思っています」と答えました。
「じゃ、君の俳句のときの名前は「優仁」だ」と躊躇なく名づけてくれました。なんだか最初から決まっていたみたいに。
「あしたの会」の人生の先輩方は私のことを「ゆうじんくん」とかわいがってくださいました。僕の名前をわすれても「友人のゆうじんくん」と憶えてくださっていた方もいらっしゃいました。
先生は「俳句を目の前にあるものを詠むだけの散文にするな」と教えてくれました。「たくさんの花が咲いたよきれいだな」「雨が降る台風もきてびしょぬれだ」みたいなものです。
俳句の会「あした」は名残おしかったのですが、先生の逝去にともない退会することにしました。先生亡きあと句会のために俳句を作ることがルーチンワークのような感じになってしまい、ものすごく申し訳なく思えたからです。わきあがる心象がないと私には俳句は詠めないんだとおもいました。
冬男先生は、自由に生きたわがままな方でした。それがなんだかモヤモヤした感情になって、心象を作っていたのかもしれません。不思議です。
心象を風景に上手に詠み込むことは、日本の知恵の結晶です。
川鵜の眼黒球面に碧き空
星運行に従う千鳥(ちどり)は海渡る (優仁)
コロナで自滅する人間より、よっぽど鳥の方が賢いと思って詠んだものです。鵜(う)やダチョウのクリクリした目の方が真実(碧い夏空)を見ていました。
通勤時に時々出会う美しい黒くて大型の川鵜(かわう)がコロナの時も普通に暮らしていました。人間界でおきた人災は自然界には何も影響がありません。観念的なもので大騒ぎしているだけでした。
自然の真実(星運行)にしたがって暮らす鳥にはコロナは無縁でした。
そこにある自然に心を写すことは簡単なようで難しいものです。
そこが俳句の良いところだと思っています。
私もみなさまとご一緒に、コロナ人災の俗世界を直感で渡ってきたのだと思います。先日のお便りの追伸に・・・
花冷えに耐えた蕾や満開に
の俳句をお詠みしてお渡ししてよかったです・・・
みなさまの頑張りとやがてやってくる暖かな春を願って詠んだものでした。
寒い冬を超えるために桜は幹に美しい色素を貯めるといわれています。
さくらの美しい色は、幹や枝でつくられたものです。
みんなは花を愛でるけれども、それを作っているのは夏の暑さと冬の寒さを超えて生き延びた幹や枝です。私は、ときどき夏の暑い日に桜の幹を撫ぜて耳を寄せることがあります。樹を渡る風の音が聞こえるからです。そしてそれは来年の春の色素を作り始めた音かもしれないと想像はふくらみます。
吹いている風の酸素も海のプランクトンや遠くの森が作り出したものです。全てはつながり、そのほとりで人間はくらしています。
その大きなしくみに比べたら、あるいはその仕組みによって作られた精巧な人間の体のしくみに比べたら、合成した遺伝子や人災化した騒動は何てこざかしく虚しく小さなものなのでしょう。それを利用して他人から奪った金貨も人間が作り出した虚しい記号にすぎません。
僕は花が散った後の桜の大木が好きです。咲いていない幹や枝を俳句に詠んだこともたくさんあります。池のプランクトンや、気持ち悪がられるミミズや死んでしまったセミやセミの抜け殻を詠んだこともあります。
空蝉は、地面に落ちると地藻類やクマムシの格好の餌になり、樹々を育て再びセミの幼虫のエサにもどります。
この世に無駄なものはなく、どれもが精密に稼働する自然の発露のひとつです。夏の夕暮れに道路の上に見つけた孤独なカマキリに、帰宅中の自分を重ねたこともありました。ものすごく暑い日で、疲れ果てて帰る途中で地面の暑さでモヤモヤ揺れているカマキリを見つけました。
焼ける道蟷螂(とうろう)の影揺れて伸び (優仁)
このカマキリはそのままだとアスファルトで乾いてしまったり、踏まれたりするので涼しい生垣まで運びました。彼女が威嚇で上げた両側の立派なカマを御礼のあいさつとしてうけとりました。「でも僕に涼しい水を運んでくれる人はいないんだよな。自分で歩かなきゃ・・・」とか思っていました。
そう思うと、忘れ去られたものも小さなものも愛おしく(いとおしく)おもえます。すべて小さな歯車のように、つながっている。
こうやって俳句は小さな言葉に、思いを込めることができます。
お便り申し上げた翌日に、カフェで俳句の会に呼ばれていて先生に私の俳句の意味を教えていただけたとのこと。なんという奇遇でしょう。
まさに「すべて小さな歯車のように、つながっている」ですね。
どうぞ俳句の意味を丁寧に皆様にご解説してくださった先生にもどうぞよろしくお伝えください。私の心が伝わって、とてもうれしかったです。
丁寧なご返事ありがとうございました。
春を超えて、夏がきて秋冬を超えて、また春がやってくることでしょう。
豊かな暖かな日差しの日々を歩いていきましょう。
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