シンデレラは罪
小さい頃から「生きにくい」と思っている子どもって、どのくらいの割合でいるのでしょうか?
逆に、他の人は、小さい頃はそんなに悲しいとか寂しいとか思うことは少なかったのでしょうか?
少なくとも私は、小さい頃からいつも悲しくて、寂しくて、自分がみじめな子だという自覚がありました。
親戚の家の集まりなどに行って、いとこたちと遊んで楽しかった思い出もあるけれど、それ以外の日常は、いつも何か嫌な感じを抱えていて、いつ何で叱られるかわからなくて、怯えていた覚えがあります。
子どもって、誰もがそういう不安なものなのだと思っていました。まだ未熟だからできないことも多いので、失敗すれば怒られるのは当然だと思っていました。
でも、本当は子どもってそんな悲しい存在ではなく、何でも楽しい、何でもやりたい、失敗して叱られてもへっちゃらで、突き進んでいくものなのではないでしょうか?
一所懸命我慢して、悲しくても堪えている子どもの方が少数派でしょうし、子どもはそんな思いをしてはいけないと思います。
自分の生活が惨めだという自覚はあったのだと思います。
だからシンデレラ姫のお話に、とても憧れていました。惨めな生活に耐えれば、やがて王子様と結婚するような、ラッキーな人生が待っている。
だから今は頑張って耐えていようと思っていました。
ちょうどその頃、アニメでもドラマでも、いじめられている主人公が成長して、いじめていた人たちを見返してやるというストーリーが流行っていたように思います。
ドラえもんなどもそんなストーリーですよね。
いじめられている子を、神様はちゃんと見ていて、最後には救いの手を差し伸べてくれるのだ。
自分を惨めだと自覚する私は、そんなストーリーに憧れて、今を惨めに感じれば感じるほど、大きな見返りがもらえるような期待をしていました。
だから少しマゾ的に、痛いものに触れて耐えることに快感を覚えました。
快感というのは、将来への期待の大きさだったのだと思います。
そんな習い性が高じて、なるべく自分が不利になるような行動をつい取ってしまうようになりました。
例えば、どうしても欲しいものがあっても、我慢して買わないとか、どんなに侮辱的な扱いを受けても気づかない振りをしてしまうとか。
そうやって敢えて心を傷つけ、自分を無力だと思い込み、卑屈になっていく。
けれどそんな『不幸のどん底』から、きっと自分を救い出してくれる王子様が現れる。
だからその時まで、出来るだけ耐え難いことに耐えていこうと思っていたのです。
おそらく貯金をする感覚で、自分の傷を作っていたのです。
しかしいくら待っても、王子様が現れることはありません。
逆に大きくなるにつれ、そんな妄想を抱いている自分が馬鹿らしく恥ずかしいことだと思うようになります。
もう自分を傷つけても何の意味もないことに気づいていきます。
けれど自分を敢えて傷つけると快感を感じる感覚だけは残ってしまったのです。
恐ろしいことに人間の行動は、例え得られる報酬が無意味なものであったり、ゆくゆく自分を追い詰めるようなものであることを知っていても、メリットを得られたと感じてしまい、強化されてしまうのです。
アルコール依存症の人が、たとえお酒が自分の健康を害するとわかっていても、一瞬得られる高揚感の方に引きずられてしまうのと同じように。
だから私も、自分を蔑み自分の心に負担を掛けることで、何かワクワクする気持ちになったり、期待する気持ちが湧いてきたりしてしまう。
AとB、二つの品物があって、明らかにBは私の好みではないとしても、Bを選んでしまう。そして自分の好みを我慢したことで、何かとても良い見返りがあるだろうと期待する自分が居るのです。
シンデレラや白雪姫など、『下剋上』の童話は罪だと思います。
幼心に、我慢は美徳。惨めな人は清い心を持つというような刷り込みがされてしまうのです。
人魚姫など、最後まで幸せになりもしないのに、なぜか読者の心に人魚姫がとても清い存在として残ります。だから、王子様と結婚した姫ではなく、悲しい人魚姫になりたいと思ってしまうのです。
惨めな生活に耐えていれば、やがて誰かが丸ごと救い出してくれて、生活がバラ色に一変することなど、絶対にありません。
なのに御伽話はなぜ、そんな嘘を子どもに教えるのでしょうか?
耐えていればやがて春が来る。
そんな価値観が蔓延している。
支配者は、そういう御伽話を悪用して被害者を取り込むのだと思います。
自分の苦痛はなるべく早く自分で拒否する。
そうでないと、こじらせればこじらせるほど、言えない時間が長ければ長いほど、自虐思考から抜け出せなくなってしまうのです。