ひとりぼっちの恐怖
これがうまく行かなかったらどうしよう?
何か新しいことを始めようとする時、
そんな不安が襲います。
うまく行かなかったら
この仮説はとても曖昧です。
うまく……何を持って『うまく行く』のかというのが明確じゃありません。
企画したことが手順通りに運ばなかったこと?
やったことに対して人の反応が薄かったこと?
やったことが反対に人に迷惑をかけることになってしまったこと?
うまくやれなかった自分が恥ずかしいこと?
よくよく突き詰めて考えてみると、
自分が一所懸命やったことに対して、それを見た人が「なんだあれ?全然ダメじゃない!」と非難することを恐れているんですよね。
それこそ、大事故を起こすのではなければ失敗とはいえないし、それが手順通りに運ばなかったとしても、やったことで多くのことを学べるはず。
それに、最初からうまく行くことなど、そうそうありません。
頭ではわかっているのに、どうしようと、不安ばかりが浮かんでくる。
その不安とは、「やっぱり、あの人のやることはロクでもないね」と仲間に呆れられたり、「わけのわからないことやっている変な人」と見られるのが怖いのかもしれません。
人の評価なんて、みんな違うのに、こうしたマイナスの意見だけに敏感に反応してしまう自分が原因なのでしょう。
実際にマイナスの意見を聞かされたわけでもないのに、やる前からマイナスの反応を恐れているなんて。
幼少期、身体が弱くてしょっちゅう寝込んでいました。
熱を出すと、母が「そんなことでは学校に行けないよ」と言ったり、外でみんなが遊んでいる声が聞こえても、遊びにいけない自分を悲しく思ったりした思い出があります。
小学校4年生くらいから、急に丈夫になり、熱を出すことも少なくなりましたが、今度は熱を出すと看病され注目を浴びていたのに、誰も気にかけてくれなくなりました。
自分の丈夫さを恨んだりもしました。
常に人の反応を意識してしまうクセは、この時に培われてしまったのかもしれません。
熱を出す…‥という自分でもどうにもできない生理反応すら自己責任にされて、私が頑張らないと丈夫にならないんだと、自分を責めていた幼児期の自分。
一方で、病弱で惨めな子になれば大人が優しく見てくれるという、相対する状況。
せっかく丈夫になったら、今度は誰も私をいたわってくれない。
そもそも、いたわられないと自分の存在価値が無いと思い込んでしまうところが、歪んでいます。
でも子どもの私にはどうすることもできなかった。
そうやって、ひとりぼっちになる(本当はひとりぼっちでも何でも無い)ことへの恐怖が、身体の芯に植え付けられているのでしょう。
他人がどう見ようと、わたしが良ければそれで良い。
身体の芯に植え付けられた孤独感に、そう言い聞かせていくしかありません。
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