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同じ課題
自分のトラウマに向き合って、自分の本当の気持ちに向き合っていこうと決意したのもつかの間、家族から嫌味な態度を取られたことで、またまた自尊心がダダ下がりになってしまいました。
結論から言って、どれも同じ課題なのです。
自分のことが好きで、自分のやることは失敗だらけだけど、それで良いや、と認めることができたら、家族だろうが他人だろうが、何を言われても動じない。例えみんなが批判をしても、自分だけは正しいと信じぬくことができる。
もっと言えば、自分が間違っていたことがわかったとしても、その時点で反省して後を引かない。
そんなすご技(?)もできるかもしれません。
何もできない惨めな自分に酔う。
周りと比較していると、結局自分のダメさに絶望し、その『可哀想な私』に酔うことしかできなくなります。
よくよく思い出してみると、私の目は、『美しい人』『有能な人』『コミュニケーションの巧い人』ばかりを追いかけていたように思います。
現実だけではなくて、アニメやドラマの中の登場人物も、主役級か注目を集めるキャラでなければ、ただの道具としか感じません。
もちろんアニメやドラマはそういう作りなので、仕方ないですが、そういう目で現実を考えてしまうと、自分という『主人公』の芯は、『美しくて頭が良くてカリスマ性があるはず』となってしまいます。
はじめにちょっと登場して敵キャラにあっさりやられてしまうキャラなどにはなりたくありません。
もしそんな登場の仕方だったとしても、実は後ですごいキャラとして復活できると信じなければ、納得がいかないのです。
しかし、そんな主役級の人は、全人口の何パーセントなのでしょうか?
滅多にお目にかかることのできない希少人物なのです。
不遇の人生はきっと、何かすごい才能や可能性の裏返しで起きている。
だからこそ試練に耐え、いつか花開く時を待つ。
私はそう勘違いしてきたのかもしれません。
意識的に思ったことは無いのですが、無意識の中でそんな期待をしていたのでしょう。
現実に自分は『非才』であることを、どうしても認められなかった。
だから理解できていないことも理解したふりをして大人になってしまった。
私は『非才』であり、私にできることはとても少ない。
これは自虐ではなく、本当のことなのです。
今はまだ、どうしても自虐的なニュアンスで考えてしまいがち。
心からそれを受け入れるということは、
『非才で、できることが少なくても、幸せに生きることはできる』
と、心穏やかに思えることなのでしょう。