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諦めのススメ

40歳を過ぎてからマラソンを始めた。

昔から長距離走は大の苦手。そんな苦手意識の克服と、フルマラソンを完走できたら、いつかはあのサロマ湖100kmマラソンも走ってみたいなーと夢見ての挑戦。

しかし、

トレーニングで、20代の若い連中と皇居をグルグルを走っていると当然のようにみんなに遅れる。

あまりに遅いから、おばちゃんが道を尋ねてくる。ランナーやっちゅうの。外国人観光客がシャッターを押してくれと頼んでくる。ランナーやっちゅうの。ハエが額にとまる。生きてるっちゅうの!

それでも、フルマラソンに5回出場して2回は何とか完走。もうこれで十分。自分の実力のほどを知り、100kmマラソンはもう諦めました。キッパリ諦めました。

諦めました

諦めました


最新のDNA研究によると(AKB53ラボ)、日本人はこの「諦める」という言葉が他人の口から発せられると反射的に、

「まだいける、頑張れ!」
「これぐらいでへこたれるな」
「諦めた瞬間にゲームセットだ」

と、とりあえず励まし諦めさせまいとする習性があることが明らかになってきた。諦めることは良くないことだとDNA深部にまで刷り込まれているのは、スポ根漫画や学園ドラマの影響との分析結果が報告されている。

そんな日本社会のなかで、諦める理由を周りにうまく説明できないと「オケツワレオ」もしくは「クチダケサンスケ」との異名を拝することになるから、日本人は気軽に「諦めました」と宣言出来ない。諦めることが簡単でなければ、挑戦すること自体が難しくなる。という悪循環。

小さな子供ほどプロ野球選手やお医者さんといった夢を無邪気に語れるのは、諦めることへのプレッシャーや罪悪感がないからであり、大学生ぐらいになると諦めのリスクが邪魔をし迂闊に夢を語れなくなってしまうわけだ。だからとりあえず「温かな家庭」と言っておく。見事に波風は立たないが、何をすればいいかはよく分からない。

高野山で修行したボクに言わせると(チビッコ一日入門)、そもそも諦めるという言葉は仏教用語で、「明らかに見る」「明らかにする」というのが本来の意味であり、ネガティブなニュアンスはない。白黒をハッキリさせてやった&やり切った感漂うステキなフレーズなのである。

人生は想像しているより相当長い。本当に長い。だから、20代は挑戦すべきことを見つけて結果を明らかにして、また挑戦してという繰り返しでいいわけだ。

そんな中で大事な合言葉は、
Never give up ではなくLet's go next 。
ドリフもそう言ってたし。

我が家の次男が幼稚園児だった頃、将来の夢を聞いたところ「ドロボー!」と元気よく答えた。無邪気にもほどがある。石川五右衛門の末路を臨場感たっぷりに伝えて白黒ハッキリさせる前に諦めさせた。(おしまい)

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