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集団家出の主犯にされた幼稚園児のワタシとカネボウ社宅の思い出

昭和30年代のはじめ、今は無いカネボウ社宅という街のような巨大な社宅がありました。

出世で住む場所や家のランクがきまる



まだ親も若く出世しないころに住んだのは東社宅で、門番の居る入り口の近くに、長屋が4列ぐらい並び、道路挟んだ向かいは市営住宅にそっくりな団地が並んでいました。

親は庭のある長屋のほうが好きで、階段のある団地はイヤだと言ってました。まだその頃の長屋にはお風呂はありませんでした。

スチームサウナのような巨大銭湯



銭湯は巨大な社宅の真ん中辺りにあり、1円で入れました。社宅の中だから1円で、外の普通の銭湯は何十円かしたと思います。

社宅の銭湯は工場の蒸気を利用した銭湯で、番台の人もいちいち1円をチェックしないので只で入る人が多かったようです。

外の銭湯より社宅の銭湯は大きくて、蒸気利用なので銭湯全体がスチームサウナのようでした。

湯船の向こう側の人の顔は曇って見えなかったです。

空いているときは、洗面器を空気を入れて逆さまにして。洗面器に捕まって泳ぎました。
小4まで父親と一緒に広い男湯に入っていました。お風呂で泳ぐのが大好きでした。ある時から男湯には入れてもらえなくなりました。ショックでした。

生活必需品も社宅内で揃う


銭湯の向かいには売店があり、今のコンビニより広くて売り場はゆったりしていました。

病院スポーツ施設があるリッチな福利厚生

売店の向こうには病院があり無料で診察が受けれました。

公園もそれぞれの社宅ごとにいくつもありました。

売店の他、社宅の工場や会社の近くには小売店がいくつかありました。
散髪屋、パーマ屋、服屋、本屋、お菓子屋と数軒の店がありました。

プールやテニスコートや野球場がいくつもあり、車は滅多に入ってこない子どもには安全な遊び場がたくさんありました。
道場や卓球場もあったようです。

父親は柔道有段者で良く若い部下の国体選手に勝ったことを自慢していました。

いつもスキあらば一本とろうとワタシは飛びかかるのですが、足をはらわれて、ゆっくりと畳の上に転がされていました。

父親には肩車で花火見物や田舎の盛大な提灯神輿の祭や社宅の外の夜見世の思い出があります。

母親と遊びに出かけた記憶はありませんでした。

父親の出世とともに、広いお風呂つきの前庭広い庭のある社宅に順番に引っ越します。

五右衛門風呂

なんと、当時でも珍しい五右衛門風呂でした。
鉄の釜の風呂に丸い板を沈めてその上にしゃがむのです。
もたれると鉄の釜で火傷します。
そとで焚き口から薪をくべるのです。
まるで時代劇の風呂でした。ワタシも風呂を沸かす役目をさせられていました。裏庭に長い廊下の縁側があり、トイレの外には水が吊り下げられ、鉄の棒を上に押すと水が出て手を洗うのです。

家には妙な電化製品が庭や倉庫にありました。


四角い氷を入れる冷蔵庫。(電化製品ではないですね)氷屋さんで大きな氷を買って、それで冷やす冷蔵庫でした。


洗濯機は手動脱水


二本のローラーがついていて、ローラーの間に洗濯物を挟んで、ハンドルを回すと洗濯物が板のようになって出てきます。

テレビが変わっていて大きな箱に覗き穴が空いていて、除くと奥のほうにスマホくらいの画面がありそこに放送が映ります。なんでも日本初めてのテレビの試作品で、そのメーカーに勤める叔父さんからゆずり受けたそうでした。

後にメーカーから返してくれと言われメーカーの博物館にそのテレビはあるそうです。

他に坂本竜馬の時代のような上から覗くカメラもありました。

幼稚園時代



まだペーペーのころの社宅に住んでいた幼稚園時代、幼稚園は外の私立幼稚園に通いました。

城北公園


社宅の園児たちと集団で帰る時に、城北公園に行ったことがあるか?という話になり、ワタシはあるでと言ったら

みんなが行きたがり池にボートもあるし広い公園もあると教えると。

みんなが行きたい!行こう!と言い出し

遠いからバスでないと行かれへんと言って帰ろうとしたら、
「子どもは只やからバスで行こう」ということになり、幼稚園児だけで城北公園を目指すことになりました。

園児だけでバスに無賃乗車


高倉町三丁目からだと何駅もあり、かなり遠いです。

ワタシは年長で年中の子もいました。
 同い年の男の子が行ったことがないから行きたがり、躊躇するみんなを「行こう行こう」と説得しみんなは行くことに決めました。

行きはヨイヨイ帰りは恐い

5~6人の園児はガヤガヤとバスに乗り込み。バスは出発し、城北公園前につくとみんなはガヤガヤと降りるとバスの運転手さんが「大人の人は?お母さんは?」と聞かれお金持ってないとわかると、「今回だけやで、子どもだけで乗ったらあかんよ」と、注意されたものの。
園児だけで城北公園につきました。中は林で薄暗く池のボートは乗せてもらえません(当たり前です)

つまらないので帰ることになります。

帰りのバスは通報されたのか?乗せてもらえず、歩いて帰ることになります。

幼稚園児が何キロも歩く

4~5才児には無理な距離です。
大人でもバス停何駅かはかなりしんどい

しんどくても帰らないといけません。


薄暗くなり泣き出す子も

年長のワタシはしっかりしなきゃと痛い足で歩いて行きます。
「泣いたらあかん。歩かないと帰れない!置いて行くで!」と小さい子に。奮起させても、よけいに泣く。

手を繋いでなだめなだめ帰っていきます。

薄暗くなる、道を高倉町三丁目近くまでくると親たちが一塊になってそこにいました。

泣きながらそれぞれの親に抱きつき家に帰りました。

みんな泣くのに泣かないワタシ

ワタシは親に怒られると思っていたら、人前なのでニコニコの母親に戸惑いました。

のちに。
先導したのは、ワタシということになるのですが、不思議に叱られませんでした。

リーダーだと機嫌がよくなるのです。

幼稚園で決して叱らないようにとの申し送りがあったようでした。

社宅の思い出は残すべきなのでnoteに記します。

父親は部下は100人をこえてリーダー職なのは母親は自慢のようでした。

父親が天皇陛下に仕事を説明している写真が大切な家宝になっています。


田舎に行くと天皇皇后両陛下の額いり写真が仏間に飾ってありました。
当時は天皇皇后両陛下の写真を飾るのは普通のことでした。


初めて外人がうちに来た

ワタシが大きな積み木として基地作って遊んでいたソファーを
ソファーに組み立てて、
そこにスイス人に座ってもらいました。

丸いお膳の向かいに家族で座ります。

何も無い家で、今だったら恥ずかしい家です。

畳の広い家具がテレビしかないような家でした。

ステレオはありました。
田畑義夫、村田英雄、三橋美智也がありました。
クリスマスソングや三人娘、バケーション。可愛いベイビー。女性向けは誰かのお下がりかもしれません。かけているの見たことありませんでした。レコードかけるのはワタシでした。
押入れが広くて全ての部屋に押入れがありました。
 二階にワタシのの机や本棚がありました。

何も買ってくれない親が、参考書は黙って買ってくれました。

葡萄を皮ごと種ごと食べるスイス人

ワタシがチマチマと一粒ずつ食べていると、
スイス人は目配せして、葡萄を一房まるごとバリバリと食べました。
驚きました。
北欧の人は葡萄は皮ごと種ごと普通に食べるそうです。

見たこともない豪勢な寿司桶が出てきて、
英語は喋れないし、スイス人も英語は母国語でないし。
寿司ネタを説明するのが大変でワタシが絵を描きました。
タコの絵を。

テンタクルス


当時は外人はタコ食べないの知りませんでしたから。
タコの絵を描いて、当時流行っていた映画のテンタクルスを思い、テンタクルスと何度も指差したのですが通じていたか?不明です。外人にしたら気持ち悪いタコの化け物映画。スイス人は意を決したのか?タコのにぎりを食べました。今さらながら気の毒なことをしたと思います。
のちに外国の人はタコやイカを気味悪がって食べないことを知りました。

 文化祭もあった社宅あげての社員イベント

大学祭みたいに、劇あり歌ありの楽しいイベントでチケットを束でもらっていろんな、屋台で食べました。母親は留守番で
ワタシははしゃぎました。

アイスキャンディーの試食

ときおり、社宅の小学生は会社に呼び出され、お皿に五本のアイスキャンディーを並べて
どれが一番美味しいか?という試食会があり、普段買って貰えないアイスキャンディーをたくさん食べれて嬉しかったです。
「お腹こわすから二本まで」と言われていたのに、全部食べちゃう男子もいました。

カネボウハリスという食品メーカーもそこにあったのでした。

北欧の国王様が来賓

またときおり、どこかの国王が来賓し、社員家族全員が社宅内の道路沿いに並び、渡されたどこかの国旗を振る行事がありました。黒塗りの長い車に王様たちがいて、一目見ようとランランとしていました。

父親はときおり珍しいお菓子を持って帰りました。

貰えると嫌なこと全部忘れるくらい嬉しかったです。

カネボウ閉鎖

カネボウが無くなったのはワタシが成人してからです。
父親は早期退職して一番率のよい退職金を受け取っています。残ってた社員はそんなに貰っていないそうです。
何千人も暮らしていたカネボウ社宅が無くなってしまうなんてダムに消えた町みたいです。

時系列むちゃくちゃですが、思い出したので

拘置所で死刑があるとは知らなかった頃

拘置所の裏にカネボウの南社宅と野球場がありました。
草ぼうぼうでグランドと呼んでいました。
グランドの端は壁があり、巨人の扉がありました。巨大な扉で鍵穴自体、2mくらい上にあり?オバケがでるウワサがありました。

南社宅は幹部社員しか住んでいなくて、前庭のある門構えで、うちは山芋が植えてあり、ムカゴがたくさんとれました。

裏庭には、柿ノ木や桜の木、紅葉の木やグミの木や薔薇の木がありました。

広い庭でワタシは穴ほりに夢中になり1m以上小さなスコップで掘りすすみ。身体がスッポリ入る穴の底には、大きめのタイルの床が現れ。外国のクッキーの缶が現れ、石炭も見つかり、石畳か?洋館の床のようなエキゾチックさを感じて心踊りました。

叱られて埋め戻すわけですが、戦時中、進駐軍でも住んでいたのでしょうか?

偉い先生が居たカネボウ病院

まるで赤ひげのようなお医者さんがいました。
 先生はワタシを心配して母親を叱る人でした。

勇気あふれた無麻酔治療


掃除中のプールで滑って頭から、血を出した小学生低学年の子を病院に連れていくと

赤ひげ先生は病院の窓口にみんなを呼んで。手術を見るように言うのです。

「○○君は偉いで。みんなに見せたりな。頭は痛くないやろ?糸で縫っても平気やろ?みんな○○君は凄いやろ!みんなもがんばるように○○君に声かけてやー」と言われ

みんなで○○がんばれ~と応援しました。


先生は○○君を誉めることで、○○君を勇気づけ!みんなの前で言うことでみんなの力も利用して

麻酔なしで頭を糸で縫ったのでした。
○○君は誇らしげでした。

誉めるパワーの不思議さをずっと覚えているほどです。

母親には誉められた記憶はありません。

先生は○○君を連れてきたワタシたちも誉めてくれました。

その頃、初めて尊敬したのがそのカネボウ病院の先生でした。



ワタシの生き方の原点になったような思い出です。
誉めてくれるのはいつも他人さんでした。


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